心霊研究と民間信仰

2017年4月16日 (日)

知れば納得!桜と桜株にまつわる話

みなさん、こんにちは。桜前線も随分と北上して日本列島花盛りという感じですね。さて、今日は心霊研究から得られた桜と桜株にまつわる話です。

桜の字の語源は

 桜の字の語源というとみなさんはどのように考えますか?私は千葉県にある佐倉市の佐倉という呼び方が正しいのではないかと考えています。例えば、田植えのころに吹く風を昔から「さの神」と言って日本人は大切に敬ってきたのです。そこから「相模」という地名が生まれたり、季節の呼び名を「五月(さつき)」と呼んでいるのは周知の事実ですね。従って、そこから「さ」の倉、「さくら」という呼び名にたどり着くことができますね。
また、「桜」という漢字は略字で正字体は「櫻」です。この「櫻」を読み解いていくと下の図のように「木の下で貝合せに興ずる女たち」、そうですね平安時代十二単に着飾った女性たちが貝合せに興じている姿が目に浮かんできますね。漢字自体は古代中国の漢の時代に現代の漢字に近いものが完成したと言われています。従って「楼閣」という漢字が示すように、人々が集って遊ぶ場所というようにも表現されています。

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桜株と「さくら」の話

日本各地に「桜株」という地名がありますね。現代においてはこの「桜株」という呼び名は印象がよくないなどの理由で「桜が丘」などに変更されている地名もよく見かけます。本当にそうですね。「桜株」という場所は昔は村で葬式があると村人総出で「野辺送り」が行われていました。その「野辺送り」もこの「桜株」まで村人は葬列に加わっていましたが、そこから先は親族のみで埋葬地まで行っていたのです。そこから現在においては選挙の遊説のときに群衆に混じって応援に出向いている人たちを「さくら」と呼んでいることが分かりますね。下の絵は昔の「桜株」のイメージです。

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青梅市「桜株」の現風景

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あきる野市「桜株」の現風景

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どうですか、みなさん。「桜と桜株」にまつわる話、理解できましたでしょうか。

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2017年4月 4日 (火)

石仏から探る檜原村の宝探し

なかなか難しい宝探し

 いつの間にか4月になりましたね。心霊研究からちょっとわき道にそれて檜原村の金銀埋蔵伝説を調べていますが、なかなか核心に迫るのが大変です。まぁ、でも調査して分かった範囲でお話ししたいと思います。宝探しに興味のある方は是非参考にしてみて下さい。

誰が財宝を埋めたか?

 檜原村の歴史資料を調べてみると、財宝を埋めたのは平山氏重だと伝えられています。確かに檜原城が豊臣軍に攻め込まれて落城(天正18年7月12日)したので、一般的には檜原城にあった金銀財宝は、さて、どうなったのだろうと考えるのが当たり前ですね。写真はその平山氏重が自刀したと伝えられている「御霊檜原神社」です。

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伝承の主な検証

 今回検証したのは昭和54年に出版された「檜原・歴史と伝説」(著者:小泉喜三朗)ですね。何しろ、この本には朝日伝説が12ページにもわたって記載されているから圧巻ですね。この小泉喜三朗さんと言うのは檜原村の出身で東京高等検察検事などを歴任された著名な方のようです。

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財宝の発見があった

 この本によると昭和50年代に檜原村の北谷側白岩というところで壺に入った宝物が発見されたと説明してあります。金銀埋蔵伝説はまんざら嘘ではないようです。ただし発見されたのは小規模なもので、まだ他にもあるのではないかと考えられているのです。

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天領の地から考えられること

 檜原村はその昔から天領の地、幕領の地と呼ばれたように、天皇家や幕府が直轄していた村だったのです。日本国内には他にも同じような場所がありますが、例えば長野県川上村、埼玉県の秩父地方に目をやってみると川上村には隠し金山、秩父地方には有名な秩父銅山がありました。従って、檜原村にも何らかの鉱山があったのではないかと考えられます。檜原村にはその昔、安和の変(969年)のころに為平親王が落ち延びてきたという伝説が残っています。下の写真が法蔵寺の鐘楼にみられるその証拠ですね。

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では、どこに金銀はあるか

 前に説明したように朝日伝説からひも解いていくと、鉱山があったと思われるのは下の地図にある宮ケ谷戸(みやがやと)が最有力だと思われます。時坂の人頭杖がある場所から見るとすぐ近くに法蔵寺があるのが分かりますね。

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宮ケ谷戸の調査

 宮ケ谷戸というのは宮の谷戸(かいと)という意味ですね。昔の村は沢に沿ってありましたので、その沢のことを谷戸と呼んでいたのです。東京にある世田谷(せたがや)という地名も恐らく地名の起こりは谷戸だったと考えられますね。下の写真が現在の宮ケ谷戸の風景です。左側に石仏群が見えますね。

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橋供養塔の存在

 昔の人々は新しく道を作ると「道供養塔」、橋を作ると「橋供養塔」といった供養塔を必ずといってよいほど建立しています。でも橋というものは洪水が起こるとすぐに流されてしまうから丈夫なものが必要だったのではないでしょうか。その橋が宮ケ谷戸にあったのです。大金をかけてここに橋を作ったのには必要性があったからだと考ええられますね。

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その先には広場がある

 その橋を渡った先には広場がありました。現在は廃校になっていますが以前は檜原村の小学校があった場所ですね。この広場を昔の人は何のために使っていたのかという疑問が沸くのは当然です。村の和田集落の古文書には「生活が困窮したら教えたところを掘れ」と記されています。従って、この場所のどこかに鉱山跡が見つかるかもしれませんが現在までそれらしいものは発見できませんでした。

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どなたか宝探しに挑戦しようとする人はいませんでしょうか?




 








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2017年1月20日 (金)

檜原村 金銀埋蔵伝説の検証

それでは、檜原村の金銀埋蔵伝説について地元の民話や現地調査の検証をしてみましょう。

民話から見えてくるもの

檜原城の宝

檜原城ちゅうのがあったの、ご存知でしょう。それのまあ末裔だかなんだかの檜原郵便局の、あれ吉野郡次さんちゅうのかな、そこに書類があるらしいですよ。それで、どこかに、そのう、まあ、宝ちゅうが、まあ朱が千樽、漆が千樽、それが、あのどっかに埋蔵してあるだろうという話はありますよ。いや、この辺じゃあなく、もっと向こうだわ。時坂(とっさか)という所があるでしょう。ときさかというんだな。まあ、ここらでは、とっさかというんだ。どっか、あの辺だよう。それはね、あのう「朝日さす、夕日に輝くその先の行って帰って杖の下」そんなね、あれ(歌)があるらしい。(檜原の民話 著 高津美保子より)

朝日伝説と杖

朝日伝説というのは日本の全国各地に金銀埋蔵伝説がある場所では必ずと言ってよいほど、この伝説がありますね。でも、ほとんどは単なる民話や伝承として知られているだけで、噂話としてとらえられているものが殆どです。
ところが、檜原村の金銀埋蔵伝説を調べてみると、不思議なことに朝日伝説のとおり目標物があるのが分かります。要するに、朝日さし、夕日輝く場所というのは山間部では山の頂付近を意味しています。朝日や夕日が見えるのは山の頂上付近だと言うことです。檜原の民話で紹介されている時坂峠を調べてみると、確かに、その「杖」なるものにたどり着きました。間違いなく朝日伝説そのものです。その「杖」というのは、下に説明する「人頭杖」だと考えられるのです。

人頭杖(にんとうじょう)

檀拏幢(だんだとう)とも言い、閻魔王が持つ杖。杖の上には通称「見る目」「嗅ぐ鼻」と呼ばれる二つの頭部が乗っており、これらは閻魔王が冥府で亡者を裁く際に善悪を感知するという。悪行が多ければ憤怒の男相の口が火を噴き、善行が多ければ女相から芳香が漂う。(撮影場所:檜原村時坂峠 緯度 35.43.50.070 経度 139.7.50.070)

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母子地蔵と幽霊目撃情報

時坂峠の頂上付近の村道の脇に、この母子地蔵がひっそりと祀られています。檜原村の村史や石仏の資料などを調べても、この母子地蔵のことは紹介されていませんが、昔の村人たちが無くなった母子を不憫に思って建立したのではないかとも考えられます。宝蔵寺の脱衣婆が遊郭があった証拠だとすれば、この女性は遊女のひとりだったのかも知れません。そして、この辺りで女性の幽霊の目撃情報があります。(撮影場所 檜原村時坂峠 緯度 35.43.47.520 経度 139.7.50.178)また、昔から日本のお隣の朝鮮半島では、古い金山跡には幽霊が出るという伝えがあるそうですから、まんざら嘘ではないような気がします。

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なぜ厳しかったか、檜原の口留番所

檜原には昔、関所があって往来の人を調べた。関所とはいっているが、本当は関所ではなくて、大宝令に、いわゆるサン所というべきものであった。通行人を調べて過書を持つ者は通し、持たない者は通行を禁ずるというのは関所であり、関所手形を持つ持たないにかかわらず、人いっさい通行を禁ずるというのがサン所である。檜原にあったのは檜原口留番所というもので、村の者以外一切の通行を禁ずるというもので檜原口留番所といわれた。大島延次郎「諸国御関所書付」は徳川氏関東入国の時、五十五か所の関所を設け、そのなかに檜原ただ一ヶ所だけが、いっさいの通行を禁ずる口留番所であった。(檜原・歴史と伝説 小泉輝三朗 武蔵野郷土史刊行会より)この口留番所は檜原村元郷の役場近くに復元されています。

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遊郭があった証拠、サアドの婆々の石仏

宝蔵寺にサアドの婆々という三途の川の脱衣婆(だつえば)の石仏がある。昔は山下のウトウ沢尻にあった地蔵堂にあったというが、今は山上の本堂前に移してある。~三途の川というのは俗説で、あの世とこの世を隔てる川だという。人が死ぬと、先ずサンマイバというところに落合い、それから三途の川を渡ってあの世へ向かう。~サアドの婆々はエンマ様のお付の着物脱がしの役目である。~青森県の恐山にも三途(サド)の川という処がある。サアドとは三途を訛ったということである。(檜原・歴史と伝説 小泉輝三朗 武蔵野郷土史刊行会より)また、亡者から衣を剥ぐところから内藤新宿の遊女の商売神として信仰された。その他に宮ヶ谷戸の近くに「湯久保」という地名が残っていて、そこにはかつて温泉が出ていたことも分かっています。

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職人がいた証拠、宮ヶ谷戸の聖徳太子塔

檜原村の北谷の上流に宮ヶ谷戸という集落があって北秋川の橋の近くに石造群があります。聖徳太子信仰はおもに職人たちのあいだで職人の神様として崇められていたもので、当時、宮ヶ谷戸に何らかの専門の職人たちがいたことを表しています。そして、ここの聖徳太子塔は三段式、すなわち墓石にみられる供養の三段式構造となっています。これは、当時のある職人たちを供養したことを意味しています。これにより、宮ヶ谷戸に鉱山のようなものがあったと推測できるのです。

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ねえ、みなさん、檜原村の金銀埋蔵伝説。これだけの証拠を見ると、まんざら噂話ではないような気がしませんか?

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2017年1月10日 (火)

檜原村の金銀埋蔵金の行方(序章)

金銀埋蔵伝説のロマンがある檜原村

みなさん、こんばんは。今日は心霊研究もいっぷくして東京都檜原村に伝わる金銀埋蔵伝説についてお話したいと思います。今回は以前このブログでも取り上げた金銀の埋蔵伝説について、さらに掘り下げて序章、検証、考察に分けてお話しします。

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檜原村の地名の起こり

この村を象徴するものは大岳山(標高1266,5m)である。大岳山には日本武尊(ヤマトタケル)を祭神とする大岳明神がある。この大岳明神というのは尊の父、景行天皇が尊が征戦に明け暮れて三十歳にもならぬ若さで早世したことを悲しみ、尊の足跡の地を廻られて、その霊を祭られたところである。これは旧記にみえるところである。~(略)その神地の名として景行天皇の宮居、大和国磯城郡纏向村(しきぐんまきむくむら)にあった纏向檜原宮(まきむくひばらのみや)の名を移したのではないかと思うのである。(檜原・歴史と伝説(炭焼村の生活史) 小泉輝三朗著 武蔵野郷土史刊行会より)その他の説として日野村(現東京都日野市)に居館を構えていた平山一族が足利氏の命を受けて城を築き檜原村を支配していたことが記されており、古文書などにも日野原村という地名が出てくるので、ここから現在の檜原という地名が起こったのではないかという説もあります。

檜原村の金銀埋蔵伝説

先ずは、檜原村に伝わる金銀埋蔵伝説を紹介しておきましょう。「沢又には朝日伝説という金銀埋蔵伝説がある。朝日伝説という名は便宜上私がそう呼んだので、そういう名で伝承されているのではない。地下に埋蔵の金銀がある。その埋蔵の場所は<朝日さし夕日かがやくその奥に行って帰って杖の下>という歌で示されているのだが、まだ誰も歌の謎を解いた者がなくて、金銀は埋められたままだと言われている。そして、この金銀は檜原城主が生き残るわが子のために城に伝わる金銀を沢又地内のどこかに埋めたのだという方向に謎を解こうとしている伝説である。」(檜原・歴史と伝説(炭焼村の生活史) 小泉輝三朗著 武蔵野郷土史刊行会より)
また、村人の口伝によれば金銀の財宝は朱千樽、漆千樽に収められて埋蔵されています。

古地図から何か分かるだろうか

沢又地区(赤丸印)は檜原村の北谷側上流にあり、昭和50年代に埋蔵金発掘ブームがあったころ白岩というところで調査をしていた人が江戸時代の古銭を発見したという記録が残っていますが、それは小規模なもので二千樽もの金銀には全く手が届かないものでした。残念ながら、檜原村に残された古地図には、そのような手掛かりはみられませんね。

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2017年1月 2日 (月)

呼ばわり山の奇跡

あけましておめでとうございます

心霊研究に関心のある皆さま、今年もどうぞよろしくお願いします。

呼ばわり山(今熊山)に初詣

今熊山は関東の霊場として有名ですね。標高は505mありますが、意を決して初詣に挑戦してきました。写真は今熊山山頂に祀られている奥宮です。ご祭神は建速スサノオノミコト、月夜見命(ツキヨミノミコト)です。安閑(あんかん)天皇の時代、すなわち西暦534年頃に勧請したと記録に残っているので、とても由緒ある神社なのです。

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今熊神社の入り口

今熊神社は交通の便も悪くJR八王子駅からだと、上川町行のバスに乗っていくしかありません。

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途中に正福寺がある 

多くの観光客は、この正福寺を素通りしていきますが、今熊山が本山となっているので今熊神社と関係があるのです。本堂の入り口の天井に素晴らしい龍が描かれています。龍は天皇家を表していると伝えられています。

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いざ、今熊山へ

今熊神社の後方に見えるのが「関東の霊場、今熊山(標高505m)」ですね。

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今熊神社の横にある稲荷神社

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怪奇現象か?

逆光でもないのに、お稲荷さんの社殿にオーブや不思議なものが写っていました。ひょっとしたら、お稲荷さん?まあ、でも、よく分析してみないと・・・

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参道は特にきつい!

今熊神社が標高300mくらいですから、山頂までの200mをいっきに登るので年寄りには大変でした。

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新宿副都心がよく見える

今年は天気がいいので遠くに新宿副都心がよく見えました。

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山頂にある石造物群

山頂にあるからだと思いますが、石造物の多くは雷の直撃を受けているものが見られますね。石造物は山神、地神、雷神、水神などが主に刻まれています。

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いやー、それにしてもきつかったですー

安閑天皇のころ、宮妃が行方不明となり、そこで祈祷したところ無事にもどってきたという伝えで、それから今熊山は関東の霊場、呼ばわり山と呼ばれるようになったようです。みなさんも一度今熊山詣でをなさったらどうでしょうか。










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2016年7月 9日 (土)

ついに発見!密教、寒念仏のルーツ

みなさん、こんにちは。東京の西多摩地方は今日は生憎の雨天です。今日は昔の人々が信仰した寒念仏のルーツについて大発見がありましたのでお話しますね。

どこにでもある寒念仏塔

一言で寒念仏と言っても、普通の人には何のことだか訳が分からないと思います。でも、下の写真にあるようにお寺や神社の傍に建っている石塔をよく見てみると、寒念仏塔って文字が見えてきますよ。一度、ご自宅の近くの神社やお寺の傍にある石塔をよく見てくださいね。
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寒念仏って何?

寒念仏ってのは、私も長年、そのルーツを調べてきましたが、庚申塔や二十三夜塔などは平安時代のころ中国から伝来したことは知られていますが、寒念仏塔は全くの謎だらけなのです。戦国時代のころに大津絵に鬼の寒念仏が描かれているのは分かっていますが、誰が何のために広めたのかよく分かっていないのです。下の絵が大津絵十四人衆、すなわち十三人は侍や商人などの一般人で、そのなかに鬼が一匹紛れ込んでいるのです。それで、大津絵十四人衆と呼ばれています。この寒念仏は庚申信仰などと同様に三年かけて講の形式で行われています。また、寒念仏塔は石灰岩か自然石の二つに分かれて建立されているのが特徴ですが、この理由もまだよく分かっていません。


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ルーツは日本から3500kmも離れたヤップ島だった

この寒念仏塔が日本から遥か彼方3500kmほど離れたミクロネシア連邦のヤップ島がルーツだと言ったら、皆さん信じられますか?何をバカなことを言っているんだと一蹴される方がいらっしゃるかも知れませんが、これは事実なのです。
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石貨と寒念仏に共通点がある

ヤップ島では石灰岩を加工した石貨が知られていますね。不思議なことにヤップ島には石灰岩は産出せず、500kmほど離れたパラオから石灰岩を切り出して船で運ばれていたのです。500kmも離れたところから船で運んでいたのですから命がけですね。そうしてまで、ヤップ島の島民は何故このような石灰岩を手に入れたかったのでしょうか、不思議ですね。石貨と言うように個人的な財産のような価値があったのだと私は考えています。一方、日本の寒念仏塔の多くは石貨と同様に石灰岩を切り出し、文字を刻印したものが見られます。どうして、わざわざ石灰岩に固着したのかが疑問となりますね。大発見!この寒念仏塔を調べているうちに、石貨と同じように丸い穴が開けられたものに出会ったのです。この時、体中を稲妻が走る!これが寒念仏のルーツだと直感したのです。

ヤップ島の石貨の例


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私が発見した穴の開いた寒念仏塔

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どうですか?みなさん、信じられませんがヤップ島の石貨と寒念仏塔の共通点、理解できましたか?石貨の丸い穴は運ぶために開けられたという説が大半を占めていますが、私が発見した穴の開いた寒念仏塔を見てみれば故意に開けたとしか考えられません。石貨の穴は多分、運ぶために開けたのではないでしょうね。

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2016年5月 2日 (月)

福井県と水と語源の話

熊本地震で被災された皆様、頑張ってください!

いよいよ五月のゴールデンウィークが始まりましたね。熊本地震で被災された皆様も後かたずけで大変だと思いますが、頑張ってくださいね。私も出来ればボランティアに出向きたいと思いますが、募金だけで今は何もできません。 昔、高校生の頃に私の家も水害にあって大変な思いをしましたが、その体験を作文にして発表したら県から優秀賞をもらって感動したことを今でもよく覚えています。災難も考え方によれば災い転じて人生の活力になるのだと思います。

五行思想と五つの漢字の解読

さて、今日は中国から伝わった「五行思想」から「水」の成り立ちを解読したいと思います。五行思想では万物は水と木、金、火、土から成り立っていると説明していますが、そもそも、これらの漢字は中国の占術から派生したのではないかと考えています。 よく漢字の成り立ちを象形文字から派生したという説が多々ありますが、私は原型の文字は占いから派生したと考えています。では五行思想に出てくる「水、金、火、木、土」の五つの漢字を解読してみましょう。 この五つの漢字の成り立ちは下の図の通りです。「水」については後ほど説明します。「金」は金属の屋号と王と八、「火」は日本の歌舞伎役者の顔を連想すれば目がつり上がっているのでよく分かりますね。「木」はすなわち「十八」、これは月信仰の十八夜のことを表しているのだと考えています。「十八夜」は月待ち六観音の初日で「聖観音」が主尊です。「土」は「十一」、すなわち「刻の始まり」を表していると考えています。

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「くのいち」から「水」を読み解く

以前、「くのいち」ミステリーについて漢字の語源を説明しましたが、この「くのいち」の読み方で「水」を解読すると、図の通り「ふくい」という読み方が浮かび上がってきます。この「ふくい」の地名由来を調べてみると、「ふくい」:よく水が湧き出るところの意味で地名では福井、脹井、福居、福生などがある。このように説明されていますね。八卦から見ると漢字の「水」の語源となったことがよく分かります。 また、福井県は古くは「北ノ庄」と呼ばれていましたが、時の藩主が「北」という地名を忌み嫌って改名したと伝えられています。この「北」こそ八卦の方位占いでは「水」を指しているのです。驚きですね、私の住んでいる近くに「福生市」がありますが、この福生も元をただせば「ふくい」から派生しているのです。確かに福生市は地下水が豊富にありますので地名の由来となったことがよく分かります。

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「ふくい」と井戸の話

私の住んでいる「あきる野市」には面白いことに古い井戸が二つあります。井戸と言えば昔は村の何か所かに井型の井戸が点在していて、そこで人々は飲み水やら洗濯水として利用していましたが、聖水と呼ばれる水は神社やお寺から汲んで使っていたのだと考えています。「あきる野市」をこれまで歩き回ってきましたが、不思議なことにあきる野市内には約50の神社と50の寺院がありますが、その中でも阿伎留神社と比丘尼(びくに)寺跡にしかこのようなタイプの古い井戸がなかったのです。阿伎留神社は形が四角で比丘尼寺跡のものは円形、すなわち「まいまいず井戸」と呼ばれるタイプのものです。「まいまいず」とは「かたつむり」の殻の形から、そう呼ばれているようです。 このように井戸の形も神仏によって形が分けられていたように思います。井戸は水が湧き出るところですね。 どうですか?皆さん、「ふくい」の地名由来について理解できましたか?

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2016年3月 6日 (日)

「女」くのいちミステリーの謎解き

「くのいち」ミステリーの謎を解く

みなさん、こんばんは。
あちこちで梅が満開で季節はもう春ですね。
今日は心霊研究を一服して、「女」すなわち「くのいち」文字のミステリーについて、この謎を解いてみたいと思います。

「男と女」の漢字の原点

「男」は田んぼの力と書いてあるので、誰でも男の文字の原点は理解できますが、謎は「女」という文字ですね。昔から「女」という文字を日本人は「くのいち」と呼んできていますね。いろんな人がこの「女」という文字は人が子供を抱いている姿だと解説していますが、これでは解説になっていないように思います。
そもそも、中国で生まれた漢字は甲骨文字のように占いから作られて発展してきています。「男」の文字も「田」すなわち魔除けという意味が原点にあるので「女」という漢字も占いから派生したと考えるべきですね。

「女」は文化の組み合わせ?

女という文字を分解すると「くノ一」に分かれます。この文字のパーツを検証してみると、「く:ひらがな」、「ノ:カタカナ」、「一:漢字」と面白いことにひらがな、カタカナ、漢字という三つの文字にたどり着きます。
不思議ですね、中国で生まれた「女」という漢字には日本で生まれたひらがなとカタカナ文字が含まれているのです。

「くのいち」は季節を表す表現だ

「くのいち」を数字に置き換えると「九の一」、すなわち「91」という数字になりますね。この「91」がそもそも季節を表す数字になるのです。
これは、西洋のトランプの発想と同じで、スペード、ダイヤ、ハート、クラブともに1から13までの数字があります。1から13を足してみると結果は91となります。従って、91×4種類=364になって364日という太陽暦の1年が見えてくるのです。トランプでは1年365日に対応した場合、1日が不足します。これを埋め合わせるためにジョーカを1枚追加して太陽暦の365日に合わせているのです。
従って、トランプの四種のカードは四つの季節を表していると伝えられています。この春夏秋冬は西洋では季節の女神として表現されているために、ここから「女」という文字の原点にたどり着くのです。

どうですか、みなさん「くのいち」ミステリーの謎が分かりましたか?

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2016年1月 1日 (金)

八王子にあるふたつの庚申霊場

呼ばわり山へ初詣

謹賀新年。心霊研究に関心があるみなさま、ことしもどうぞよろしくお願いします。 今日、東京都八王子市にある今熊(いまくま)神社に初詣に行ってきました。今熊神社はかつて今熊野神社と呼ばれていましたが、いつの頃からか不明ですが現在の今熊神社と呼ばれるようになったのですね。 この今熊山は関東の霊場、すなわち、行方不明者を呼び戻すことができる霊場「呼ばわり山」として古くから信仰されてきた有名な山ですね。

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猿田彦と青面金剛は庚申信仰の主尊

八王子の霊場といえば高尾山が有名ですが、もうひとつ、上川地区にある今熊山は冒頭にも説明したように「呼ばわり山」として知る人ぞ知る霊場なのです。 下のGoogleの地図に二つの山の位置を示しています。この二つの山は庚申信仰でつながっているのです。

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高尾山と猿田彦

高尾山と言えば「天狗」で有名ですね。庚申信仰では神式の主尊として「猿田彦」、すなわち天狗が信仰の対象となっています。薬王院のところにも天狗が立っていますので、よく分かりますね。

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今熊山と青面金剛

今熊山は世間では余り知れ渡っていませんが、これは要因のひとつに交通の便が悪いことがあげられます。高尾山はJR中央線や京王線が近くまで走っていますので交通の便に恵まれていますが、今熊山はちょっと行くのには大変です。甲州街道から枝線に入って高尾街道、秋川街道へとはいって行って五日市カントリーを過ぎたところから、やっと今熊神社の案内板が見えてきます。 今熊山の裏手に「金剛の滝」があって、かつて、この場所が修験場だったことが分かります。「呼ばわり山」は行方不明者を呼び戻すという触れ込みになっていて、今でも、この神社に行方不明者を呼び戻すために訪れる人が多いのです。 この行方不明者を呼び戻すという表現に、かつては、今の探偵事務所のことを「興信所」と呼んでいましたね。この「興信」は「庚申」から派生したと考えることができますね。 仏式では庚申信仰の主尊は「青面金剛」なのです。

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2015年10月 1日 (木)

本当だった地名(万場)の怖い由来

ローカル線のバス停って役に立つ

 早いもので今年も10月になりました。暑い暑いと騒いでいたのがウソのようですね。 さて、先日、東京都青梅市の吉野街道を散歩していましたら、あるバス停に万場坂と表示されていたので興味を持って坂のほうへ足を運んでみました。私の心霊研究で坂と処刑場の関係も調べていますので、この「万場坂」が気になって由来などを調べてみました。有名なのは兵庫県にある万場スキー場の地名でしょうか。各地に万場とか万町などの地名がたくさんあるのが分かります。 バス停って、よく見てみると昔の地名などで表示されたものがあるので、現地調査の際に地名確認で大変役に立ちますね。

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「万場」は死体処理の場所

 「万場」とはバンバと呼ぶこともありますが、よく語源を調べてみると「よろず場」のほうが正しいようです。その「よろず場」では昔々何をやっていたのでしょうか。そこには「死体処理」というキーワードが現れてきたのでビックリです。

本当だった地名の由来

 死体処理なんて、ちょっと驚きもありますが、下の写真にあるように万場坂の途中に無縁墓地のようなものが実際にあったので、またまた驚きです。心霊研究では昔の両墓制の通称「うめ墓」というのも調べましたが、そこには必ずと言ってよいほど水先案内人の「お地蔵さま」が近くにあるのが分かりましたが、この万場坂には石仏や石塔はひとつも見当たりませんでした。とても不思議です。

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謎が深まる「万場」

 この場所は上の写真にあるように塚のようになっていて表面はさら地で墓石のようなものは見当たりませんが、数十体の死体が埋まっているので注意と表示が出ています。「よろず場」が死体処理場だった証です。でも、どうして昔の人々は何も目印も建てずに、このような墓地を作ったのでしょうか。謎が深まるだけです。 みなさんの近くにも「万場」って地名はありませんか?

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