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2017年4月 4日 (火)

石仏から探る檜原村の宝探し

なかなか難しい宝探し

 いつの間にか4月になりましたね。心霊研究からちょっとわき道にそれて檜原村の金銀埋蔵伝説を調べていますが、なかなか核心に迫るのが大変です。まぁ、でも調査して分かった範囲でお話ししたいと思います。宝探しに興味のある方は是非参考にしてみて下さい。

誰が財宝を埋めたか?

 檜原村の歴史資料を調べてみると、財宝を埋めたのは平山氏重だと伝えられています。確かに檜原城が豊臣軍に攻め込まれて落城(天正18年7月12日)したので、一般的には檜原城にあった金銀財宝は、さて、どうなったのだろうと考えるのが当たり前ですね。写真はその平山氏重が自刀したと伝えられている「御霊檜原神社」です。

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伝承の主な検証

 今回検証したのは昭和54年に出版された「檜原・歴史と伝説」(著者:小泉喜三朗)ですね。何しろ、この本には朝日伝説が12ページにもわたって記載されているから圧巻ですね。この小泉喜三朗さんと言うのは檜原村の出身で東京高等検察検事などを歴任された著名な方のようです。

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財宝の発見があった

 この本によると昭和50年代に檜原村の北谷側白岩というところで壺に入った宝物が発見されたと説明してあります。金銀埋蔵伝説はまんざら嘘ではないようです。ただし発見されたのは小規模なもので、まだ他にもあるのではないかと考えられているのです。

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天領の地から考えられること

 檜原村はその昔から天領の地、幕領の地と呼ばれたように、天皇家や幕府が直轄していた村だったのです。日本国内には他にも同じような場所がありますが、例えば長野県川上村、埼玉県の秩父地方に目をやってみると川上村には隠し金山、秩父地方には有名な秩父銅山がありました。従って、檜原村にも何らかの鉱山があったのではないかと考えられます。檜原村にはその昔、安和の変(969年)のころに為平親王が落ち延びてきたという伝説が残っています。下の写真が法蔵寺の鐘楼にみられるその証拠ですね。

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では、どこに金銀はあるか

 前に説明したように朝日伝説からひも解いていくと、鉱山があったと思われるのは下の地図にある宮ケ谷戸(みやがやと)が最有力だと思われます。時坂の人頭杖がある場所から見るとすぐ近くに法蔵寺があるのが分かりますね。

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宮ケ谷戸の調査

 宮ケ谷戸というのは宮の谷戸(かいと)という意味ですね。昔の村は沢に沿ってありましたので、その沢のことを谷戸と呼んでいたのです。東京にある世田谷(せたがや)という地名も恐らく地名の起こりは谷戸だったと考えられますね。下の写真が現在の宮ケ谷戸の風景です。左側に石仏群が見えますね。

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橋供養塔の存在

 昔の人々は新しく道を作ると「道供養塔」、橋を作ると「橋供養塔」といった供養塔を必ずといってよいほど建立しています。でも橋というものは洪水が起こるとすぐに流されてしまうから丈夫なものが必要だったのではないでしょうか。その橋が宮ケ谷戸にあったのです。大金をかけてここに橋を作ったのには必要性があったからだと考ええられますね。

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その先には広場がある

 その橋を渡った先には広場がありました。現在は廃校になっていますが以前は檜原村の小学校があった場所ですね。この広場を昔の人は何のために使っていたのかという疑問が沸くのは当然です。村の和田集落の古文書には「生活が困窮したら教えたところを掘れ」と記されています。従って、この場所のどこかに鉱山跡が見つかるかもしれませんが現在までそれらしいものは発見できませんでした。

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どなたか宝探しに挑戦しようとする人はいませんでしょうか?




 








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