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2017年1月20日 (金)

檜原村 金銀埋蔵伝説の検証

それでは、檜原村の金銀埋蔵伝説について地元の民話や現地調査の検証をしてみましょう。

民話から見えてくるもの

檜原城の宝

檜原城ちゅうのがあったの、ご存知でしょう。それのまあ末裔だかなんだかの檜原郵便局の、あれ吉野郡次さんちゅうのかな、そこに書類があるらしいですよ。それで、どこかに、そのう、まあ、宝ちゅうが、まあ朱が千樽、漆が千樽、それが、あのどっかに埋蔵してあるだろうという話はありますよ。いや、この辺じゃあなく、もっと向こうだわ。時坂(とっさか)という所があるでしょう。ときさかというんだな。まあ、ここらでは、とっさかというんだ。どっか、あの辺だよう。それはね、あのう「朝日さす、夕日に輝くその先の行って帰って杖の下」そんなね、あれ(歌)があるらしい。(檜原の民話 著 高津美保子より)

朝日伝説と杖

朝日伝説というのは日本の全国各地に金銀埋蔵伝説がある場所では必ずと言ってよいほど、この伝説がありますね。でも、ほとんどは単なる民話や伝承として知られているだけで、噂話としてとらえられているものが殆どです。
ところが、檜原村の金銀埋蔵伝説を調べてみると、不思議なことに朝日伝説のとおり目標物があるのが分かります。要するに、朝日さし、夕日輝く場所というのは山間部では山の頂付近を意味しています。朝日や夕日が見えるのは山の頂上付近だと言うことです。檜原の民話で紹介されている時坂峠を調べてみると、確かに、その「杖」なるものにたどり着きました。間違いなく朝日伝説そのものです。その「杖」というのは、下に説明する「人頭杖」だと考えられるのです。

人頭杖(にんとうじょう)

檀拏幢(だんだとう)とも言い、閻魔王が持つ杖。杖の上には通称「見る目」「嗅ぐ鼻」と呼ばれる二つの頭部が乗っており、これらは閻魔王が冥府で亡者を裁く際に善悪を感知するという。悪行が多ければ憤怒の男相の口が火を噴き、善行が多ければ女相から芳香が漂う。(撮影場所:檜原村時坂峠 緯度 35.43.50.070 経度 139.7.50.070)

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母子地蔵と幽霊目撃情報

時坂峠の頂上付近の村道の脇に、この母子地蔵がひっそりと祀られています。檜原村の村史や石仏の資料などを調べても、この母子地蔵のことは紹介されていませんが、昔の村人たちが無くなった母子を不憫に思って建立したのではないかとも考えられます。宝蔵寺の脱衣婆が遊郭があった証拠だとすれば、この女性は遊女のひとりだったのかも知れません。そして、この辺りで女性の幽霊の目撃情報があります。(撮影場所 檜原村時坂峠 緯度 35.43.47.520 経度 139.7.50.178)また、昔から日本のお隣の朝鮮半島では、古い金山跡には幽霊が出るという伝えがあるそうですから、まんざら嘘ではないような気がします。

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なぜ厳しかったか、檜原の口留番所

檜原には昔、関所があって往来の人を調べた。関所とはいっているが、本当は関所ではなくて、大宝令に、いわゆるサン所というべきものであった。通行人を調べて過書を持つ者は通し、持たない者は通行を禁ずるというのは関所であり、関所手形を持つ持たないにかかわらず、人いっさい通行を禁ずるというのがサン所である。檜原にあったのは檜原口留番所というもので、村の者以外一切の通行を禁ずるというもので檜原口留番所といわれた。大島延次郎「諸国御関所書付」は徳川氏関東入国の時、五十五か所の関所を設け、そのなかに檜原ただ一ヶ所だけが、いっさいの通行を禁ずる口留番所であった。(檜原・歴史と伝説 小泉輝三朗 武蔵野郷土史刊行会より)この口留番所は檜原村元郷の役場近くに復元されています。

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遊郭があった証拠、サアドの婆々の石仏

宝蔵寺にサアドの婆々という三途の川の脱衣婆(だつえば)の石仏がある。昔は山下のウトウ沢尻にあった地蔵堂にあったというが、今は山上の本堂前に移してある。~三途の川というのは俗説で、あの世とこの世を隔てる川だという。人が死ぬと、先ずサンマイバというところに落合い、それから三途の川を渡ってあの世へ向かう。~サアドの婆々はエンマ様のお付の着物脱がしの役目である。~青森県の恐山にも三途(サド)の川という処がある。サアドとは三途を訛ったということである。(檜原・歴史と伝説 小泉輝三朗 武蔵野郷土史刊行会より)また、亡者から衣を剥ぐところから内藤新宿の遊女の商売神として信仰された。その他に宮ヶ谷戸の近くに「湯久保」という地名が残っていて、そこにはかつて温泉が出ていたことも分かっています。

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職人がいた証拠、宮ヶ谷戸の聖徳太子塔

檜原村の北谷の上流に宮ヶ谷戸という集落があって北秋川の橋の近くに石造群があります。聖徳太子信仰はおもに職人たちのあいだで職人の神様として崇められていたもので、当時、宮ヶ谷戸に何らかの専門の職人たちがいたことを表しています。そして、ここの聖徳太子塔は三段式、すなわち墓石にみられる供養の三段式構造となっています。これは、当時のある職人たちを供養したことを意味しています。これにより、宮ヶ谷戸に鉱山のようなものがあったと推測できるのです。

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ねえ、みなさん、檜原村の金銀埋蔵伝説。これだけの証拠を見ると、まんざら噂話ではないような気がしませんか?

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