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2012年3月

2012年3月28日 (水)

霊場の目印を探せ!

地元に伝わる伝説をよく精査しよう!

檜原村の黄金伝説場所は「朝日さし、夕日輝く・・・」の言葉通りの場所にある。檜原村は山々に囲まれた山村なので朝日も夕日も限られた場所でしか見ることはできない。要するに山の頂付近である。そこで、朝日と夕日が同じように望める場所は山頂付近ということだろう。
今回探し当てた場所も正に歌の通りの場所である。しかしながら、黄金埋蔵と思われるその場所は簡単には見つからない。その理由は一般の村道ではなく登山道の一角にあるからだ。筆者も苦労してやっとそこにたどり着いた。
発見したときの気分はまさにトレジャー・ハンターになったような気分だった。

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霊場の目印を探せ!

これまでの心霊調査から分かってきたことは、昔の人たちは現代の我々が云う「心霊スポット」に、その目印として庚申塔と百番塔を組み合わせて建てているということである。今回の場所も同様で幽霊の目撃談があっても不思議ではない場所だった。「幽霊と黄金伝説」のことわざを考えるならば、先ずは霊場の目印を探すことだろう。

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金属探査に超心理学的手法の応用

①ダウジングによる探査
 今回、L型ロッドを使用して試してみたが・・・、大きな反応はなかった。残念!

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②方位磁石による探査
 方位磁石による現地調査では富士山麓の樹海で異常がでるなどの事例が紹介されたりしているが、下の写真にあるように方位磁石は近くに金属物があると指針が狂う性格がある。

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このように方位磁石の性格を利用して金属探査を現地でやってみるのも費用がかからなくてよいと思う。この手法はまだ暗中模索のやり方なので、地図上で大きく狂う地点を点で表し、それを線で結んでいけば金属の大きな塊が地下にあるのが分かると思う。今回の場所もわずかであるが、その反応があった。

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オーブの反応があった

黄金埋設と思われる地点から300mほど行ったところにもう一つの神社があった。山の神さまを祀る神社だ。このように山頂付近で神社が二つもあるのだから何か理由でもあったのだろうと思う。
その神社の鳥居の近くで写真を撮るとオーブが4個写った。このオーブは写真機がデジカメなので、撮影時に液晶画面でその存在は確認できたものだ。黄金埋設地点と思われる場所ではオーブの反応はなかったので、ちょっとびっくりした。

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「幽霊と黄金伝説」、このことわざを裏付けるため、これから次の調査に向けて検討を重ねていきたいと思う。

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2012年3月22日 (木)

幽霊と黄金伝説

 幽霊が出る場所に黄金あり?!は本当だ

 以前、ここのブログでも紹介したが、我が国のお隣の朝鮮半島には「古い金鉱には幽霊が出る」という伝説がある。この伝説は筆者が奇跡の森で幽霊クリウの調査を始めたころから頭のなかになんとなく残っていたもので、奇跡の森も戦前までそのような鉱山があったような感触がある。
それは、奇跡の森に残っていた鉱山跡の機械の残骸からだった。掘り出した鉱石をドラム式の機械を使って細かく砕いていた。このような工法は金山やら銀山で見受けられるから、恐らく奇跡の森でもかつて同じものが採掘されていただろうと推測できる。

いっぽう、東京都檜原村にある黄金伝説について二年ほど調査を行っていたが、その埋蔵場所が最近ほぼ確定できた。その場所は、やはり幽霊を見たという目撃談がある場所の近くで檜原村の北谷にある小さな集落の神社の一角である。(写真参照)

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黄金埋蔵伝説内容は次の通りである

「沢又(藤原)には朝日伝説という金銀埋蔵伝説がある。朝日伝説という名は便宜上私がそうよんだので、そういう名で伝説されているのではない。地下に埋蔵の金銀がある。その埋蔵の場所は【朝日さし夕日かがやくその奥に行って帰って杖の下】という歌で示されているのだが、まだ誰も歌の謎を解いた者がなくて、金銀は埋められたままだといわれている。そして、この金銀は檜原城主が生き残るわが子のために城に伝わる金銀を沢又地内のどこかに埋めたのだという方向に謎を解こうとしている伝説である。(檜原・歴史と伝説:武蔵野郷土史刊行会編)」


このように伝えられている伝説であるが、キーワードは「朝日」「夕日」「行って帰って」「杖の下」であり、最近、そのなかの杖のありかがようやく分かった。昔の人は間違いなく目印の「杖」を黄金の隠し場所に建てていた。上の写真の場所がその場所である。これは石仏・石塔の研究から謎を解いて判明したものだ。自負するわけではないが、これまで誰にも解けなかった謎が一つ解けたような気がする。

従って「古い金鉱には幽霊が出る」という伝説は現実の話と考えて間違いない。

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2012年3月16日 (金)

忘れ去られた奇習

両墓制とは何か

 石仏研究と陰陽道の記事で述べていたように筆者の自宅近くに交通事故が多発する場所があって石仏や民間信仰、陰陽道といった幅広い見地にたって調べているが、ようやく日本の奇習「両墓制」というところにたどり着いた。
考古学やら古代史、民間信仰、陰陽道などを調べていくと先人たちの知恵やら霊にたいする考え方が少しずつ分かってくる。昔の人たちは石仏・石塔をたんなる記念に建てたのではない。それらは民間信仰特有の呪術、要するに呪い(まじない、のろい)が必ず背景にあるということである。
従って心霊スポットと呼ばれる場所には昔の人々は必ずその目印として路傍の石仏・石塔を建てている。心霊研究においては、これらの石仏・石塔の組み合わせを読む技術が必要である。そこから、昔の人たちが何のために路傍の石仏・石塔を建てたのかが分かるようになる。

話は変わって、その事故多発現場の近くを調べているうちに日本にはその昔「両墓制」というのがあるのが分かった。要するに日本各地で若干の差があるが、地域で死者が出ると死者は「埋め墓」というところにまとめて埋葬され、霊の供養は別の墓「祀り墓」で行われていたということである。このような奇習があったということは心霊研究を行っていく過程で分かってくるものでいい勉強になる。
その事故多発現場の近くの寺に写真にあるように両墓制のうち、「祀り墓」のみがあるのが分かった。「埋め墓」は近くには見当たらない。近隣の人に「埋め墓」の話をしても知ってる人はいない。もう現代人には忘れ去られた風習なのかも知れない。以前、東京都檜原村の調査をしているときにも同じような話があった。家の近くの田畑を耕しているときや道路工事を行っているときに人骨が出てくるのだと言う。村人たちはその意味を分かっていなかった。今になって気づかされるのが、この「両墓制」という奇習があったという証拠だ。従って同じ風習が自宅近くにあっても不思議ではない。そして事故多発現場の近くの寺に「祀り墓」があるということは、近くに「埋め墓」があるということが分かる。
事故多発現場は、この「祀り墓」から100mほど離れた北東方向の場所にある。現状では事故多発との因果関係は説明できないが、心霊研究においては昔の奇習もその要因として見逃せないと思う。

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下の写真は交通事故多発現場の観音堂、そのなかに安置されている物故者霊の位牌、そして観音堂の通りの風景である。何の変哲もない見通しのよい直線の通りで事故は多発している。

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2012年3月 6日 (火)

民間信仰から学ぶ大震災

もうすぐ3月11日だ

 東日本大震災が起ってもうすぐ1年が経とうとしている。筆者は被災地に行ったことがないが、過去に自宅が水害にあった経験があり被災者の心境というものが少しは分かる気がする。
一度、そういう災害に会うとよく分かるが死者やご先祖たちの霊の供養というものが、いつまでも心の底に根づいている。犠牲となった死者の形見やご先祖の位牌やら生き残った人間たちは皆それらを必死で探す。それらはテレビで放映される被災地の映像を見ても分かるように被災者の心境として一目瞭然である。
もうすぐ3月11日、去年のあの日がやってくる。犠牲者のご冥福を静かに祈りたい。

災害の記憶を生かそう

 下の本は堤 隆(つつみ たかし)さんという考古学者が3月11日を前に出版されたものであるが、過去の火山災害に何を学ぶかということをテーマに編集されている。
この本が筆者の目に留まったのは、この本で取り上げられている場所が長野県の佐久地方が舞台になっているからである。佐久地方というのは太古の昔から火山噴火が絶えない場所で、その影響だと思うが人類の生活の痕跡が時代によって途絶えてる地域でもある。
筆者も偶然かどうか分からないが、M村で心霊体験してからずっとこの地方を心霊研究という目線で調査を続けているが、現地の石仏・石塔には先人たちの災害後の心のケアに対する知恵が反映されているのではないかと考えるようになった。

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人々の心を支えた「富士仙元信仰」

 先の記事で「石仏研究と陰陽道」について述べているように、日本の中世時代の先人たちは、この「陰陽道」に強く関心を寄せていることが伺える。
「陰陽道」とはひと口で語るには到底難しい面もあるが、ひとつは「陰」と「陽」(裏と表)の世界を表しているのではないかと思う。喜びと悲しみ、建前や本音がそこに秘められている。

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 下の写真は「仙元大神明藤開山」と記された石塔であるが「仙元」は浅間山、「藤」は富士山のことを指している。しかしながら、どうして先人たちはこのように名称をぼやかして表示したのだろうと不思議に思ったものだ。
これこそ「陰陽道」の証なのである。この石塔は東京都檜原村に二基ある。この地は民間信仰では「大岳山信仰」が中心にあって堂々と「富士仙元信仰」というものを表に出して建立することができない。従って、「仙元大神明藤開山」と表して富士仙元信仰というものを裏で表現していると解釈することができる。

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 下の写真は長野県M村、K村の庚申塔である。最初はこの庚申塔の意味するものがたんなる庚申信仰だけだとばかりに考えていたが、写真に表しているように庚申塔が二基あるのには意味があるということが最近分かってきた。ひとつは富士山の宝永大噴火(1707年)、もうひとつは浅間山の天明大噴火(1783年)を表している。
要するに庚申塔二基で富士仙元信仰というものを裏で表しているということである。佐久地方といえば「諏訪信仰」が中心にあるから「富士仙元信仰」などは面と向かって表には出せない。そこで村人が考え出したのが庚申塔を二基並べて「富士仙元信仰」というものを裏で表現するという手段であったと思われる。
このように中世の世界においては大災害が発生したときに人々が心の支えにしていたのが富士山と浅間山の信仰が背景にあったことがよく分かる。

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2012年3月 2日 (金)

石仏研究と陰陽道

石仏・石塔研究で見落とされている陰陽道

 以前、ここのブログで筆者の自宅近くで多発する事故現場の調査内容を書いたことがあったが、その後の調査をここで補足して述べてみたい。
前回の記事では事故多発現場と縄文遺跡の範囲が一致している点が分かったところまで紹介していたが、その証となるべく先人達が遺した石塔・石仏の存在を調べてみた。
下の図は陰陽道で取り扱われている十二天王の略図であるが、事故現場の近くでは閻魔大王と堅牢地神塔という石仏・石塔が配置されているのが分かった。すなわち十二天王で呼ばれるところの二王が存在する。そして、この二王の間にあるのが火天である。
一般的にわれわれの身近に存在する石仏・石塔研究では庚申塔は中国伝来の庚申信仰を、二十三夜塔は月信仰が背景にあるなどと紹介されるケースが多いと思うが、ただそれだけの理由で石仏・石塔を路傍に建立したとは説明が十分にできないと思う。そこには間違いなく陰陽道が背景にあるようだ。

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何故、陰陽道なのか

 この陰陽道も平安時代に中国から伝わった民間信仰なのであるが、主に「天変地異」と「怪異」と呼ばれた不思議な現象にたいして呪詛が行われたと記録が残っている。
その記録のひとつを紹介してみよう。

 七尺の結界を地面に描いたなかに証空(しょくう:阿部清明の弟子)を座らせ、その前で阿部清明が礼拝供敬(らいはいくぎょう)して梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、八王竜王などを勧請し、祭文を読むところまで進むと護法(童子)がやってきたようであって、さまざまな供え物が空に舞い上がって、飛び回ったり、祭壇の上を踊りまわったりした。
(「曾我物語」巻第七「三井寺大師の事」)

 このように平安時代に書かれた書物のなかに実際に十二天王が登場してくるのである。

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閻魔大王・堅牢地神とは何か

 閻魔大王は日本人であれば誰でも地獄にいる怖い大王だということを知っているが、堅牢地神はほとんどの人は知らないと思う。筆者も地元で見つけて初めて知った。
この堅牢地神はウィキペディアで調べてもらえればすぐに分かると思うが、十二天王のなかで地の神様、すなわち農耕としての五穀豊穣の神様だと紹介されている。しかしながら筆者が考えるには五穀豊穣の神様だったら、身近にお稲荷さまがいるではないか。わざわざ高いお金を払ってまで建立する必要はないし、信仰するにしても二重手間になる。
従って陰陽道を読んでみると、この堅牢地神と閻魔大王の間に火天がある。火天すなわち火災と読むことができる。東京都町田市には「堅牢地神塔」が39基も発見されている。すごい数だ。その町田市の歴史に目を向けてみると、過去に大火がつぎつぎに発生したことが記録に残っていた。要するに「堅牢地神」と「閻魔大王」の組み合わせは大火とどこかつながっているということである。

 このように路傍の石仏・石塔を陰陽道を基盤にして読んでみると、昔の人たちは何を考えて信仰していたのかがよく理解できるようになる。

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