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2010年8月

2010年8月24日 (火)

縄文人と霊の芽生え

我々、人類の霊はひょっとして縄文時代に芽生えたのではないか?

その霊とは何か?死後の生命再生なのではないか、それは古代縄文人が死者を墓地に埋葬しだしたころに芽生えたのではないか。
これまで心霊研究の一環として数箇所の石塔、石仏の調査を行ってきたが「道祖神」については、よく分っていなかった。その道祖神に注目してみると日本人の民俗信仰というか民間信仰の礎となっているのは、どうやら、この道祖神なのだということが分ってきた。
そして、これまでの調査から各地の路傍で見かける石塔、石仏の多くは江戸時代の産物であるものが多く、道祖神もそのなかのひとつと思われた。
しかしながら、道祖神にはこれまで調べてきた庚申塔やら百番塔などのように建立した目的がよく分からなかったが、いろいろ調べてみると道祖神は縄文時代まで遡ることができる信仰だと分った。

道祖神は道を守る神である。塞(さえ)の神ともいい、サエはさえぎることであり、村境に立ち悪霊の侵入を防ぐ神である。このようにインターネットで調べてみると紹介されている。要するに村の守り神である。

下の写真は「道祖神は招く」(山崎省三:新潮社)に紹介されている山梨県北杜市にある金生(きんせい)遺跡の写真である。この写真からも分るように男性のシンボルマークをした石棒が遺跡の中に建立されている。これは道祖神が何かの祭祀として既に縄文時代に行われていた証拠である。
いっぽう、筆者が霊体験した長野県M村やK村は北杜市からそう遠くはない場所だ。そこには古代の縄文、弥生時代の遺跡、古墳が多数発見されている。そのひとつで筆者は霊体験した。人類の起源は今から500~600万年前だとする説が現在は有力であるが、人類に霊が芽生えたのは僅か1万年~2万年前だったのではないか、縄文時代の遺跡から発見された祭祀跡の道祖神の陽石が、そのことを我々に伝えているのではないかと思う。

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2010年8月12日 (木)

ミステリアス・ビレッジ(10)

これまでの檜原村の石塔や石仏、伝記などの調査を行ったものを下の概要マップとしてまとめてみた。
円で囲った部分が昔話や伝記などから探した位牌山がある部分である。現在までに六ヶ所ほど探し当てたが、当檜原村にはまだまだ位牌山は存在する。少なくとも十ヶ所以上はあるようである。地図上でこれらのものを表示していくと、檜原村がかつて霊場そのものであったことが伺える。

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それから話は変わって、檜原村には昭和50年代ころまで「ウカガイ」といって青森の恐山に代表される「イタコ」ような霊能者が数名いたことが昔話などで紹介されている。村で不吉なことが起こると「ウカガイ」をたてると称して占いを行っていた。
昔話などの説明によると、このウカガイは結構的中率が良かったと紹介してある。下の写真はかつて「ウカガイ」がいたと紹介されている橋本旅館である。檜原村の本宿の橘橋そばにある。興味がある方には是非一度、檜原村に出かけていただきたい。
交通は電車、バス利用だと、JR武蔵五日市駅から檜原行きのバスに乗って山王で下車する。
檜原村はまさに青森の恐山に匹敵する霊場なのである。

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2010年8月 6日 (金)

ミステリアス・ビレッジ(9)

檜原には江戸時代になって徳川幕府の関所が置かれていた。関所と言っても普通の関所と違い【徳川氏関東入国の時、五十五箇所の関所を設け、そのなかに檜原ただ一箇所だけが、いっさいの通行を禁ずる口留番所であった】(檜原・歴史と伝説:武蔵野郷土史刊行会)というものである。
従って、この口留番所がいかに厳しい関所であったことがよく伺える。写真は檜原村本宿の街並みである。近くに採石場があるせいか、ダンプの往来が激しい。この場所に口留番所がかつてあった。

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しかしながら、この厳しい口留番所も医者と僧侶は例外として通していたようである。これは現代にも通用する暗黙の了解事項といえるもので【村八分】が当時、檜原村でも慣用としてあったことを物語っている。【村八分】は、普段の付き合いは止めるが病気と弔いだけは付き合うという厳しい昔からの集団の掟である。
それから、村内に現存する42基の百番塔の存在である。百番塔(百番供養塔)は諸国百ケ所の霊場巡礼の旅に出なければ建立できないから間違いなく当時の村人たちは、この口留番所を通って巡礼に出かけていたことが伺える。

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いっぽう、檜原村の怖い昔話、位牌山伝説などを調べていくと、これらの多くに僧侶たちが登場してくる。追いはぎにあって旅の僧が絶命したもの、炭焼き釜に僧侶の霊が浮び出るものなど数多い。これは、先に述べたとおり厳しい口留番所が僧侶たちを通していたひとつの証拠だといえる。巡礼者や僧侶の格好をしていれば、この厳しい口留番所は誰でも通過できたことが伺える。
それから、もうひとつ、檜原村の北谷に中里という集落がある。そこにも庚申塔が建立されているが、この場所は古文書には【中里庚申場】と記されている。これまで庚申塔の調査を行ってきたが、その多くは庚申塔、青面金剛、庚申堂などが一般的で庚申場と表現されているものは類を見ない。
当時の徳川幕府は何故、この檜原村に人を通さない最も厳しい番所を作ったのか?庚申場は何のために作られたのか?謎が謎を呼ぶ不思議な村である。

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             (中里の庚申塔)

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