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2010年7月

2010年7月25日 (日)

ミステリアス・ビレッジ(8)

檜原村は大きく北谷と南谷というように村が二つの谷の名称で呼び分けられている。要するに村を流れる秋川が本宿で二手に分れて南秋川と北秋川となって上流にいく。その渓谷を南谷、北谷と呼んでいるのである。
南谷側は言ってみれば昔は武州と甲州を結ぶ交易の要となっていた檜原街道そのものである。いっぽう、北谷側は南谷側と一転して交易とは異なる様相を呈している。
写真にあるように檜原村を象徴するのが、この大岳山(標高1266.5m)である。大岳山には日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祭神とする大岳明神が祀られている。

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要するに北谷側は昔から修験道と呼ばれた聖地なのである。安和の変(安和2年:969年)のとき敗れた皇族がこの地に落ち延びたという伝説もある。
本宿から北谷に向かって千足、中里の集落を抜けて進んでいくと大沢という集落にたどり着く。この大沢というところは北谷側で拓けた場所で人家も多い。この集落の外れに宝蔵寺という古寺がある。建永二年(1207年)創建で、修験僧たちのより処となったと伝えられている。
この宝蔵寺の境内の片隅に地蔵、百番塔と並んで【脱衣婆(だつえば)】が置いてある。脱衣婆とは閻魔様のお付の婆さんで着物脱がしの役回りである。この脱衣婆は昔は村道の脇に置いてあったそうである。この脱衣婆という石仏はそんじょそこらで拝見できる代物ではない。

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要するに、この脱衣婆を通りすぎたものは生きて帰ってこれないということを物語っている。脱衣婆を通りすぎると暫くして藤原、藤倉、日向平(ひなたびら)にたどり着く。この場所に北谷のバスの終点がある。いわゆる【賽の河原】と呼ばれる場所だ。三界万霊塔、庚申塔、馬頭観世塔、墓石が一同に立ち並んでいる。
墓石は殆どがお坊さんのものだ。墓石の頭が丸くなっているのですぐ分る。ここには昔、寒沢寺というのがあった。今は廃寺となって墓石だけが昔の面影を伝えている。
その場所から更に上流に進んでいくと、沢と山道が同じ高さに出会う場所がある。この場所に12~15基くらい石塔が並んでいる。【賽の河原】と呼ばれる場所だ。この辺りは日向平(ひなたびら)と呼ばれるところで、地名の由来は年中、陽がよくあたる場所なのだそうである。そして、位牌山伝説が多い場所でもある。

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現在、郷土史やら関連の書物を読み漁っているが、その書物に今だたどり着いていないが、【三界万霊塔】、【脱衣婆】、【賽の河原】、【日向平】、【位牌山】を組み合わせていくと、その昔、この付近に間違いなく【姥捨て山】が何箇所かあったのではないか、その場所がいわゆる【位牌山】と呼ばれた場所なのではないか。北谷を調べていくうちに、その確信が高まってきた。

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2010年7月16日 (金)

ミステリアス・ビレッジ(7)

先日、檜原村で【位牌山】と称される場所の調査に行ってきた。地元の人の話では村の神社の裏山のようである。
場所は檜原村の南谷と呼ばれる南秋川の上流だ。五日市から檜原街道を車で向かって本宿から南秋川沿いに左折して上流を目指す。
本宿の交差点付近から異様な山が見えてくる。吉祥寺というお寺の裏山だから、その昔、檜原城があった山だ。まるで、その形が位牌に似ているようで【位牌山】と呼んでもいいように感じる。しかし、この山は地元の人が呼んでいる【位牌山】ではないようである。

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檜原街道は、とに角、道が蛇行している。直線で結ぶと目的地も近く見えるが、なかなか思うようにはいかない。そうこうしているうちに人里(へんぼり)にたどり着く。この集落はその昔、人里四ケ村と呼ばれていて帰化人と武田の落ち武者が開拓したことが郷土史などで説明されている。
その人里の集落の外れに目的とする神社の鳥居があった。檜原村紀聞(東京書籍)で紹介されている【位牌山】がある場所だ。
街道からすぐ参道になっていて急な石段を上っていく。すぐに石塔が目の前に現れる。二十三夜塔と聖徳太子塔である。

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この場所から人里の集落がよく見渡せる。ここ檜原村はとに角、落武者伝説が多く残る山里である。

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更に石段を登っていくと、その先に石塔二基と小さな祠が見えてくる。近づいてみると百番塔と寒念仏塔だ。百番塔は安永三年(1774)、寒念仏塔は安永四年(1775)建立と刻印してあった。木の祠は山の神を祀ったものだ。

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その場所を過ぎて更に参道を進む。この参道は本殿まで511段の石段があるそうなので、山歩きに慣れていない人にはかなりきつい。

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街道の鳥居から10分~15分程度で本殿にたどり着く。創建年代は不明であるが、かなり古い神社である。郷土史などを調べると小田原から大工を呼んで建立したと説明がされているので、鎌倉や室町幕府の影が見え隠れしてくる。

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この神社は普段は無人のようである。拝殿の表扉から中を覗くと本殿の前で狛犬がこちらを睨みつけて、ちょっとおっかない。本殿には五大尊が祀ってあるそうである。昔から修験道の霊地として広く信仰を集めていたらしい。

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ここには近年の祟り話が残っていた。それは、神社の獅子舞のとき鼻血を出した人間がいて、一旦家へ戻った。何を考えたか家で酒を飲み、また神社へ戻って行って太刀まわりを演じたそうである。不幸なことに、その太刀が腕に当たってその人が死んだ、という話である。これはたんなる偶然に起きた事故だと決めつけることもできるが、古老が伝える事例なのでまんざら偶然の事故とは思われない。
その神社の裏山が村の古老が伝える【位牌山】である。昔からこの山の木で炭を焼いたものには祟りがある、と言い伝えられている。そのひとつの証拠が神社の参道の途中で見つけた小さな祠である。祠はここのブログでも紹介したが【山の神】を祀るものだ。その昔、村人は【山の神】の祟りを恐れて祠を参道に建立したのではないかと推測される。

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2010年7月10日 (土)

ミステリアス・ビレッジ(6)

これまでに長野、東京、埼玉の市町村に出かけて路傍の石塔や石仏を調べているが、特に近隣の市町村では宅地や道路開発などが進んで多くの石塔や石仏は神社やお寺などの一角に寄せ集められていて昔の面影が失われているものが多い。
少なくともお寺や神社の一角にある石塔や石仏の造立由来については、今の時点では近隣のお年寄りやお寺のご住職、神社の神主さんなどに聞けば、まだ由来が言伝で残っている。しかしながら、これから先は石塔や石仏の造立由来を知る手がかりは高齢化が進むと次第に薄らいでいくものと思う。誠に残念である。
東京の檜原村では村内に残る石塔や石仏を【檜原村の石仏(第二集、第三集)】(写真参照)として取りまとめられていて、郷土資料館で一冊300円という手ごろな値段で購入することが出来る。第二集は写真による石塔、石仏の紹介で、第三集は造立場所、年代などがリストに纏められている。
石塔や石仏に興味がある人にはお勧めの一品である。これまでの檜原村の庚申塔や百番塔の調査から言えるのは、少なくとも江戸時代の人々は巡礼や溝中というものを現代の我々からすれば驚くほどのパワーで民間信仰として盛んに行っていたという事実であるように思う。

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2010年7月 2日 (金)

ミステリアス・ビレッジ(5)

檜原村の村名漢字表記は郷土史などを調べてみると①檜原②桧原③日野原と三通りの表記がある。表記の語源となったのは日野村(現在の東京都日野市)の平山氏が建永2年(1207年)ころ、この地に移り住んで城主となってからのようである。従って当時は武州国日野原村と記されている。この日野原村は当時から神聖な場所として崇められ、修験者が修行の場としていたところである。そして、山中に自生しているヒノキの葉には神が宿ると信じられていた。その影響だと思われるが日野原の頭の漢字がやがて桧に変わり桧原村、近年になって同じヒノキの檜の漢字が使用されるようになって現在に至っている。
郷土史には「檜はヒと呼ばれ、カシワとも読まれていました。原の字には平らな広い土地の意味のハラのほかに大もと、つつしむ、みなもとなどの意味もあります」と解説されている。
今から22年ほど前に檜原村の民話にかんする「檜原の民話」(編集:日本民話の会、筆者:高津美保子)という本が出版されている。読んでみるとなかなか面白い。古老が伝える昔話や伝説が事細かに取り上げられている。このなかに【位牌山】のことも取り上げてあって具体的な場所も書かれている。檜原村には間違いなく【位牌山】は存在する。
心霊研究で調査を行う場合には、郷土史などのほかにこのような昔話やら古老の話に耳を傾けることが非常に大切だと痛感させられる。
写真は「檜原の民話」(編集:日本民話の会、筆者:高津美保子、発行:株式会社国土社)の表紙である。

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