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2010年6月

2010年6月26日 (土)

ミステリアス・ビレッジ(4)

檜原村には【位牌山(いはいやま)】にまつわる奇妙な伝説が残されている。位牌山と呼ばれているから多分、地図に載っているだろうと思って関連する地図を見てみたものの、どの地図にも載っていなかった。
インターネットで調べてみると全国的に【位牌山】の存在が見えてくる。しかしながら、不思議なことに【位牌山】という山は地図上でどこにも見当たらない。
檜原村の村史やら郷土史などを調べてみたが、どこにも【位牌山】にかんする記事が見当たらない。そうこうしているうちに檜原村の昔話の本に出会って、それを呼んでいくと【位牌山】と名のつく山は実在しないが、昔から地元で不吉なことが起こったり祟り伝説がある山のことを【位牌山】と地元の人が呼んでいるらしいというのが分った。
その【位牌山】と呼ばれる山は檜原村だけで少なくとも10ケ所くらいあるらしいことも分ってきた。伝説によると【位牌山】を買ったもの、その山で炭を焼くものは祟られ死に至るなどの不吉なものがある。
では、どうしてこのような奇妙な伝説が各地に残されているのだろうか。例えば長野県の松代で発見された大室古墳群は【奇妙山】と呼ばれる名前が実在する山の山中にある。【奇妙山】と【位牌山】は呼び方が若干異なるが、ここ檜原村では縄文時代あたりからの遺跡は多数発見されているが、まだ古墳群が発見されていない。山々のどこかにあるのは間違いない。そこは不思議なことが昔から起こる場所だろう。山の呼び方から霊的なところで共通するものがあるのではないかと考えられる。
まだ、【位牌山】の呼称については調査を始めたばかりなので確信は少ないが、背後にきっと古代の霊が関与しているのではないかと考えている。写真は檜原村の山々である。この写真の中にも【位牌山】と呼ばれる山が存在する。

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2010年6月20日 (日)

ミステリアス・ビレッジ(3)

幽霊遭遇体験から始まって、そこにあった百番供養塔、そして庚申信仰というものに出会って各地に残る石塔や石仏の建立由来を調べてきたが東京の檜原村を訪ねてみて、これらの石塔や石仏の見方が民俗学などで紹介されているような内容と若干異なっているのではないかと思うようになった。
それは、ミステリアス・ビレッジ(2)で紹介しているように板碑の存在である。村史を調べて分ったことであるが南北朝時代は、この地は足利氏の勢力下にあって北朝方についていた。これは出土している板碑の年紀が北朝のものなので裏づけされている。その後、北朝は廃れ南朝が勢力を伸ばしていった。
この時代は戦国時代であって、やがて世の中は徳川幕府の時代に変わっていった。それまで北朝を支持していた檜原村は仕打ちを恐れて北朝時代に建立した板碑をことごとく土中に埋めたと推測できる。
その後、大阪の四天王寺を発祥とする庚申信仰が全国に広まっていき、檜原村でも民間信仰の核となっていったことが推察できる。要するに各地に残る石塔や石仏の多くが、その時代の天皇を崇めていますという村の意思表示であろうと考えることが出来るのである。
日本全国の石塔や石仏には天皇と農民、国民一体とする考え方が深く根付いていたと考えてもよいと思う。写真は檜原村の百番塔と青面金剛像である。

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2010年6月 9日 (水)

ミステリアス・ビレッジ(2)

檜原村の調査を行っていると、本当にこの村が【ミステリアス・ビレッジ】と呼ぶにふさわしいことが多分にある。
庚申塔や百番塔の多さがそのひとつであるが、その後の調べで【板碑(いたび)】の不思議な存在が見えてきた。板碑はウィキペディアでは(供養塔として使われる石碑の一種)と説明されているが、どうも庚申信仰が民間信仰として世の中に広まる以前の民間信仰だったのではないかと思う。
これらの板碑には弥陀や釈迦が梵字で描かれている。由来は鎌倉時代の豪族や御家人たちが生前に極楽往生を念じて建立したもののようであり、檜原村では主に室町時代に多くが建立されている。
この板碑が檜原村ではひとつのミステリーとなっている。少なくとも江戸時代のころから家屋敷のない畑の中からたくさんの板碑が掘り出されているのである。それは掘り出された状況から見ると丁寧さが伺われると村史に書いてあった。
要するに当時の村人たちが何らかの理由があって板碑を一堂に集めて埋めたことが推察できるのである。その他に屋敷を建て替えるときに土中から出土したり、墓地から出土したりしている。
これらの時代背景には南北朝(1336年~1392年)の時代が重なっている点も見逃せない。当時の村人たちは何故この【板碑】を隠すように土中に埋めたのだろうか、本当に歴史上、謎の多い檜原村である。写真は檜原村の石仏第二集に掲載されている板碑である。

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2010年6月 4日 (金)

ミステリアス・ビレッジ

東京奥多摩の檜原村を訪ねてみると、とに角、石塔・石仏の多さに圧倒される。郷土資料館の話によれば村内の石塔、石仏だけで優に700くらいあって、調査が終わっているものは300基ほどだという。
庚申塔が気になって、ひょんなことで檜原村の石塔・石仏の調査を始めたのだが、歴史を遡ってみると実に不思議なものが蘇ってくる村だ。
まず第一に石塔・石仏の多さだ。馬頭観音が155基、庚申塔が61基、百番塔が42基が確認登録されていることだ。庚申溝は1年のうち6回の庚申の日に溝を行って、少なくとも3年は同じ事を続ける。百番塔は百箇所の霊場を巡礼しなければ建立はできない。庚申塔や百番塔はいずれも金がかかる行事をこなさなければならない。
そのように大金をかけて、どうしてたくさんの石塔・石仏を村内に建立したのかが大きな疑問である。
第二に【口留の関所】の存在だ。本宿にあった関所は別名【口留の関所】とも呼ばれていたそうであるが、何を【口留】していたのかも大きな疑問である。ここのブログ【庚申溝の謎を解く】でも三猿のことを取り上げていたが、同じことが、その昔、ここの関所でも行われていたのである。
第三に村の細分化である。現在、檜原村一村であるが江戸時代には少なくとも24くらいの村に分かれていたようである。石塔・石仏の多さの秘密に村の細分化が潜んでいるようであるが、何故、このようにたくさんの村に分かれていたのかが大きな疑問である。
現在、檜原村の知人に頼んで昔の資料を取り寄せているので、少しずつではあるが謎が解けることを期待している。
なお、檜原村の解説については、下記のHP【多摩のジョギング道】で詳細が紹介されているので参考にしていただきたい。
【多摩のジョギング道】
http://homepage3.nifty.com/k_harada/hinohara_s/hinohara_s.htm

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