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2010年4月

2010年4月28日 (水)

庚申溝の謎を解く(7)

では、筆者が不思議な体験をした長野県M村にある「奇跡の森」の百番供養塔に目を向けてみよう。
この場所に庚申溝に伴う庚申塔は建立されていないが、不思議なことに百番供養塔だけがポツンとひとつだけ建立されている。これまで、M村の石塔調査を併せて行ってきたが、M村の石塔建立のしきたりとしては馬頭観音、庚申塔などと並べて建立する慣わしのようである。これは村のお寺が庚申溝を直接、主導しているからである。
これまでの調査で「奇跡の森」の百番供養塔には【嘉永元年申年】という建立時期が刻印されているが、この申年こそ庚申信仰の現れだろうと考えられる。何故なら、各地に残る多くの石塔を調べて回ったが、建立した時期は【○年△月吉日】と刻印されているのが普通である。わざわざ【申年】と刻印したのは庚申塔を建立できない理由があったからだ。
では何故、「奇跡の森」には庚申塔や馬頭観音が建立されなかったのかが大きなミステリーである。これは、これまでの調査で「奇跡の森」で起こった不思議な出来事が【山のもの】の仕業と考えられていたからである。この【山のもの】とは人間界ではない別の世界のものということで、このために村のお寺は「奇跡の森」の百番供養塔を現在でも直接関与していない。
本来であれば、「奇跡の森」には百番供養塔だけでなく庚申塔と馬頭観音が併せて建立されていてもおかしくない。「奇跡の森」は仏教界から【山のもの】として見放された場所なのである。

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2010年4月22日 (木)

庚申溝の謎を解く(6)

各地の庚申塔を調べていくと石祠(せきし)との妙な組み合わせに気づくことがある。この石祠についてはインターネットなどで建立の由来を調べてみても確固たるものがない。誠に不思議な存在だ。
一説によると十二神を祀ったものだとか、神社の社の意味があるのではないかと説明されているが、どうもそれらの説には納得できない。
写真(上)は庚申供養塔と石祠を組み合わせたもので、先に説明した【陰陽道の場所】に建立されているものだ。写真(下)は古戦場跡に建立されている木製の祠であるが、この場所は一説によれば激戦地で多くの人命が失われた場所である。
このように木製の祠や石祠というものには、【ここで過去に不幸な出来事があって人命が失われた場所】だと言うメッセージが隠されているのではないかと考えることが出来る。従って、写真(上)のものは、この場所で過去に不幸な出来事があって人命が失われたので庚申溝を行って供養のために石塔を建てたと読むことが出来る。

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2010年4月14日 (水)

庚申溝の謎を解く(5)

庚申信仰は主に年6回の庚申の日があって、おおよそ60日ごとに庚申溝が各地で毎年の行事として行われてきた。
このなかでうるう年やうるう月というのが旧暦のなかにあって、その年によって庚申溝が年7回、年5回に変則的に変わる年がある。この年に行われる溝を七庚申、五庚申と呼んでいるようである。
この七庚申や五庚申の年は庚申信仰のなかでは特に縁起が悪い年と考えられている。本当に縁起が悪い年かどうか明暦(1655年)まで遡って調べてみて思われるが、若干ながらその時代に明暦の大火や富士山の大爆発(宝永大噴火)などが重なって発生しているから、まんざら迷信ではなさそうであった。
話は変わって、この平成時代はどうかと言うと七庚申は今のところ2回ある。1回目は平成12年であった。これは云わずと知れた平成の大不況の始まりの年である。平成11年は世界的に問題となったアメリカの同時多発テロが起こった年である。そして2回目の年は来年(平成23年)なのだ。一説によれば現在の世相は平成享保説を唱える人がいる。
享保時代を遡ってみると、その年は享保の大飢饉(長雨)と呼ばれた年であった。こうして考えてみると、七庚申や五庚申はたんなる迷信とは考えにくいのではないだろうか。来年の七庚申こそ、われわれはしっかりと歯を食いしばって生き抜く力が必要なのかもしれない。

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2010年4月 7日 (水)

庚申溝の謎を解く(4)

これまで長野県や埼玉県、東京都にあるさまざまな石塔を訪ねて来たが、庚申溝と同じように溝が行われてきたものに月見溝というものがある。
これは十三夜から始まって二十六夜の間に講を開くもので、多くのところで二十三夜塔というものに出会う。この月見溝のことをインターネットなどで調べても、庚申溝のように深く説明したものにめぐり合うことがない。誠にもって不思議である。
庚申溝は古来、平安時代ころから日本国内に根付いた民間信仰であることは分ってきたが、月見溝はたんに月見と呼ばれた十三夜から二十六夜に行われたものだとの認識しか現在の世の中にはないようである。
しかしながら、いろいろな場所を訪ねてみたが、庚申塔と月見塔(十三夜~二十六夜)がいっしょに建立してある場所は皆無であった。写真(上)に示すとおり、これは二十三夜塔と寒念仏、百番塔、馬頭観音が一同に建立されているもので、庚申塔は建立されていなかった。また、写真(下)には庚申塔と百番塔、馬頭観音が建立されているのが分る。
これらの写真からも分るように、庚申溝と月見溝は少なくとも同じ場所で行われてこなかったことが分る。そして、それぞれに百番塔、馬頭観音などが建立してある。
この調査からも分るように、月見溝は庚申溝と同様な民間信仰の力を持っていたのではないかと考えてよいと筆者は考える。どなたか、この月見溝について詳しい方があれば情報の提供をお願いしたいところである。

Koushin017

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2010年4月 4日 (日)

庚申溝の謎を解く(3)

各地の庚申塔を現地調査やインターネット、書籍などで調べてみると、さまざまなものがあるのが伺える。
筆者はこの庚申溝を民俗学の見地から調べているわけではない。要するに、民俗学では深く立ち入らない霊魂の世界が、この庚申溝に隠されているのではないかと考えたからだ。
ではどうして江戸時代に爆発的に全国に【庚申溝】が広まったのだろうか。それは江戸時代、すなわち徳川家康という将軍の意向があったのではないかと考えている。
徳川家康は元和二年(1616年)に没して、その翌年の元和三年に下野国日光へ改葬されている。その日光東照宮には有名な三猿がいる。この三猿こそ【庚申溝】に出てくる三猿なのではないかと思う。
戦国時代が終わり徳川の天下になり、世が安泰となったので家康の遺訓に【庚申溝】とつながるものがあったからこそ、全国的に爆発的に広まったのではないかと考える。
挿絵は筆者がこれまで見聞きした【庚申溝】をイメージとして古の姿を描いたものである。【庚申溝】は間違いなく村や集落の戒律(見ザル、言わザル、聞かザル)として行われたのではないか、これまでの調査で一段と確信が高まってきた。
よくよく考えてみれば、これは現代情報社会における【秘密漏洩】に十分対応できる策ではないかと思うのである。心理学的にも守秘義務の情報だと言われると人は、それを頑なにこころのなかに留め置くことは出来ない。つい誰かにしゃべりたくなってしまう。
それを【庚申溝】のような方法で年に数回関係者が集って、その関係者同士で秘密情報を語り合うのもいい漏洩防止の手段なのではないか。これは先人たちの考えたすばらしい知恵に間違いない。

Koushin016

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2010年4月 3日 (土)

庚申溝の謎を解く(2)

先に紹介した【庚申信仰の伝播と縁起】を読んでいくと多くの地方の庚申溝の際に呪文が使われているのも興味深い。(「庚申縁起比較表」152頁)
これは筆者が判断するには【魔よけ】の呪文なのではないかと考える。写真(上)に示すとおり、この庚申塔は長野県K村で撮影したものである。今から7000年~8000年前の縄文遺跡の前に建立されているもので、昭和40年に地元の大学の発掘調査で12体の人骨が出土した場所である。要するに、この場所は縄文人の墓地なのである。
ではどうして、江戸時代の村人たちはまだ考古学のようなものが確立していない時代に7000年も8000年も前のお墓の前で【庚申溝】を行うことが出来たのだろうか。この場所には昔の村人たちが鳥居を建てている。これは少なくとも、この場所にその時代の氏神の存在を村人たちが信じていたことを示すものでないかと考える。
それから写真(下)は東京都檜原村の街道沿いにあるもので、社の中には石塔や石仏はない。近くの供養塔に「古老の言によれば、この地には明治40年頃に街道交通の車馬の安全を願い馬頭観世音像を祀り、以来長く安置されてあったが、昭和34年の伊勢湾台風の折、土砂崩壊のため、その頭部を折損、修復後の昭和40年、道路工事の際、またまた頭部を折損し行方不明となったため、像を撤去したる後は交通事故多発し多くの死傷者を出すに至った」と説明してあった。
これは昭和になって地元の古老の言い伝えにより判明したものであるが、同じ場所で江戸時代の村人が【庚申溝】を行っているのも事実である。要するに昔からこの場所は災難の多い場所だったと考えることが出来る。これは古の陰陽をそのまま受け継いでいるもので、やはり【庚申溝】というものは、一般的な慣習で行われてきたという説には耳を疑いたくなるのである。

Koushin001

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2010年4月 1日 (木)

庚申溝の謎を解く(1)

さて、筆者は2002年5月に長野県M村に渓流釣りに出かけて、その村の林道で幽霊に遭遇する不思議な体験をした。そして、その村で【庚申溝】や【百番塔】の民間信仰が今でも色濃く残っていることを知ったのだが、この【庚申溝】というものは調べれば調べるほど奥が深い。
【庚申溝】はここのブログでも以前取り上げたことがあったが、要するに平安時代に中国から伝わった民間信仰で庚申の日(年6回)に眠らずに溝を行うものと多くの文献で説明がなされているが、果たして、このような説明だけで正しいのだろうか?
これまで長野県M村、K村を含め近くの庚申塔を調べてきたが多くのものが大地震や大火災という背景があったのは事実である。そして、そのいくつかの【庚申溝】には、その溝を行った場所が、どうしてこんな場所で行ったんだろうと首を傾げたくなる場所が結構あった。
陰陽の世界で見れば、誠に不可解な場所で【庚申溝】を行っていたことも分る。要するに事故が多発する場所や昔から災いが多発する場所なのである。最近、庚申信仰にかんする専門書のなかに【庚申信仰の伝播と縁起】(小学館スクウェア:写真参照)という本が眼に留まったので現在読み漁っているが、全国の【庚申塔】の由来を詳しく調べられていてなかなかためになる本である。
これまでの筆者の調査から述べると、この【庚申溝】は

①村や集落の戒律(見ザル、言わザル、聞かザル)として行われた。
②事件や事故が起こった場所で関係者のみが集まって行われた。
③鎮魂や犠牲者の供養として行われた。

以上の三点である。筆者は民俗学などの専門家ではないが、これまでの不思議な体験や現場の調査から昔の【庚申溝】を推測している。
【庚申信仰の伝播と縁起】の本の中にもそれらしき調査内容が記されているので、参考までに挙げておく。

五、天王寺へ天下り給ふ本地青面金剛童子の事(304頁)
ここに本朝仏法の開基聖徳太子御建立の霊地四天王寺の南門の辺りにあって怪しき光物見へたり。天王寺七村の人々始に何とも思はざりしが、遥に日をおひ月を重ねていよいよ怪く光をれば、七村の者共、指集り是はいか様いわれの有べし、天下大事かさなく近隣の災難の斗り難き成と各々詮議まちまち也。その中にこざかしき者進出出申す様は、否々ヶ様の事昔より三国に於て其例にあらず。

と記してある。昔の人々は何か不吉なものを見たりした場合に、そこで災いを恐れて庚申溝を行っていたのではないかと推察できる。

Koushin013

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