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2009年1月

2009年1月31日 (土)

天領の地

Tenryou01 現在、長野県M村の筆者が「奇跡の森」と名づけた界隈を歴史的な事件や事故をもとにスポット的に調べているが、ちょっと視野を広げて近隣の村々の出来事も併せて調べている。
このM村は長野県でも南信濃と呼ばれる地帯に属しており、この地は昔から天皇家とのつながりがあって、その昔から「天領」と呼ばれていたところなのである。
これまで30回ほど奇跡の森を訪ねて霊魂に関する調査を続けているが、このような山奥の地が何故「天領」と呼ばれていたのかが不思議でならない。藤森栄一さんの「古道」を読んでみてもこの辺りは現在は高原野菜などで生計を立てているが、昔からとても貧しいところで田畑には向かず、きこりや狩猟で生業をたてていたものが多かったそうである。
今でもこの場所が何故「天領」と呼ばれていたのか不思議であるが、その昔、天皇家の一族は京の都が本拠地だったのだから京から信濃の山奥までどうやってこの地にたどり着いたのだろうかと考え巡らす。
写真はその昔「天領」と呼ばれていた場所の山並みである。そういわれてみると周囲の山々が天を指しているように先がとがって見えてくる。

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2009年1月18日 (日)

怨霊のこと

Suwa001 怨霊(おんりょう)という言葉を聴くと一般の人は余りいいイメージを持つ人はいないが、筆者が調査している長野県M村では確かに「怨霊」たる痕跡が村のところどころで見受けられる。
先に紹介した「七人塚」もそうである。その昔、間違いなく供養塔が置かれている場所で悲惨な事件や事故があったのは確実である。村人は忌まわしい事件や事故が起こった場所に祟りを恐れて供養塔を建立したのである。
そのM村には、その昔、一人の女性が嫁いできて姑からきつい仕打ちを受けて、挙句の果て近くの滝から突き落とされて死に絶えたという伝説の滝がある。現在、その滝の傍には小さな神社が建立されているが表向きは一般的な神社として崇められている。
しかしながら、やはり一人の女性が怨念によって滝つぼに突き落とされた場所の近くに神社が祀られているのだから、それは誰も口にしないが滝つぼに突き落とされた女性の怨霊を供養するための神社であるということができる。
人間というものは恨みを抱いて死んだら、その後に「怨霊」がさまよい歩くものなのではないか、M村にある女性がその昔滝つぼに突き落とされた怨念の地を訪ねてみると、そのような実感が湧いてくる。
はてなキーワードでも「怨霊」について次のように述べられている。
【怨霊】生前に何らかの理由で、極度の恨みを他者に抱いた状態で死んだ人の怨念が、実体を伴って現世に出現した状態を指す。古来から「たたる」として恐れられている存在であり、それを鎮めるために神社が作られ対象が祀られた例は数多くある。
写真はM村に建立されている神社である。この神社のすぐ近くには突き落とされた女性の名前のついた滝つぼがある。まさに現実に起こった怨霊の世界のできごとなのである。

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2009年1月 9日 (金)

八人の手を持つ七人塚

7nintuka M村の百番供養塔はG寺の山号となっている標高1600mほどのT山のふもとにある。M村の昔話を調べても、この百番供養塔にまつわる不思議な怪談、奇談は何も残ってない。
しかしながら百番供養塔がある山あいのちょうど反対側に「七人塚」が建立されており、近くでよそ者を殺害したという昔話が残っている。この「七人塚」のいわれは、その昔、M村を訪ねた七人の行者が宿泊した宿のもてなしが悪いといって部屋をめちゃめちゃにして引き上げたのに腹を立てた宿の主人が、この行者たちを追いかけて殺したもので、祟りを恐れた村人がその供養のために建立したものと村の昔話で伝えられている。
この「七人塚」というものはインターネットで調べてみれば分るように、全国的にはその昔、平家の落人たちが逃れた山あいの地でそこの村人たちによって惨殺されたりして悲惨な最期を遂げた場所に供養のために「七人塚」が建立されているケースが多い。そして「七人塚」に刻まれている七人は塚のいわれから「複数名の御霊」と判断したほうがよい。
M村の「七人塚」には建立した年代は刻まれていなかったが、恐らく「七人塚」が全国的に広まった平安、鎌倉~戦国時代のものであるということができると思う。そして、M村で殺されたのは行者ではなくどこかの落ち武者たちだったに違いない。ましてや修行を行っているものが伝説のような悪さをするはずがない。殺された人数も七人塚のいわれを考えると葬られている御霊は複数名だと考えてもよいだろう。
とに角、筆者が不思議な体験をしたM村のT山のちょうど反対側に「七人塚」が建立されているのは事実である。現在、奇跡の森との因果関係があるかどうかを調べているところである。写真はその「七人塚」であるが、その仏像には手が八つある。恐らく七つは殺された落ち武者の御霊、残るひとつがお釈迦様ではないかと思うのである。

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2009年1月 5日 (月)

謎深まる百番供養塔

Hyakuban012 それではM村の石碑の謎について、次は奇跡の森に建立されている「百番供養塔」である。この供養塔はここのブログで何度か紹介しているが、一般的に知れ渡っている「百番供養塔」ではなく実在する御霊を供養するためのものと思われる。
この供養塔はNHK大河ドラマ「篤姫」の時代、すなわち嘉永元年(1848年)に建立されている。これは、この供養塔に刻まれている(嘉永元年申年:かえいがんねんさるどし)から判明したものである。
要するにわざわざそこに(申年)と刻んであることが謎だと思うのである。なぜ、わざわざ(申年)と刻んだのだろうか。一般的には(○年○月吉日)と刻むはずだと考える。それで、先に述べた「庚申塔」がすぐ脳裏に浮んでくる。これは百番供養塔を建立した年が申年だったので年号の下に刻まれたものだと思うのであるが、これは偶然ではなく庚申塔のように「申:見ザル、言わザル、聞かザル」という村の戒律が背景にあるのではないかと思うのである。
まだ奇跡の森で過去に起こった災いのような事件、事故に関する確固たる証拠はつかめていないが、何かこの場所で過去に忌まわしい事件や事故が起こったのは間違いないと思っている。
これまでの調査で分っているのは、少なくとも平成元年(1989年)のころの村人たちには奇跡の森で不可解な災いが起こるということが分っていなかったのである。そのために奇跡の森に広がっている大理石を平成元年のころ切り出そうとして何人かの村人が筆者と同じように不思議な体験をしているようなのである。そのころ造られた砕石場は現在、加工場なども含めてものの見事に跡形もなく片付けられ、そこにはきれいに補修された百番供養塔だけが静かに残ってているだけである。
その痕跡は百番供養塔の後ろに無残に残されている切り出そうとした大理石や、吊り上げに使ったワイヤーロープなどが放置されているあわただしさから見て分る。村の役人やら教育委員会の方々に詳細を聞こうとしても含みのあることは聞こえてくるが、誰も真実のことはしゃべってはくれない。
写真は奇跡の森に建立されている最近撮影した冬景色の「百番供養塔」である。やはり刻まれている(申年)は「よそ者に絶対他言無用!」と村の戒律を投げかけているのかもしれない。

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2009年1月 3日 (土)

村の厳しい戒律【庚申塔】

Kousintou01 長野県のM村にある筆者が名づけた「奇跡の森」を調べ始めて、もう6年の歳月が流れていった。
このM村というところは実に歴史上の出来事を調べていけばいくほど奥が深く、その昔の「ムラ(村)」とはどういうものだったのかということを、そこにある石塔などが現代の我々によく語りかけてくれる場所ではないかと思う。
先に述べた【寒念仏鉦叩像】もしかりである。その当時、村は大飢饉に見舞われ、その苦境を村民が一丸となって乗り越えるために地元の僧侶が寒念仏という荒行をやりこなして建立されたものだった。
まさに時代の苦境に対して村民が一丸となったことを【寒念仏鉦叩像】は今の我々に語りかけているのである。
そのM村であるが、村の入り口に【おさる庚申塔】というものが建立されている。ウィキペディアによれば【庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である】と説明されている。
これまでにいろいろとM村の歴史上の出来事を調べているが、この庚申塔は奇跡の森の百番供養塔と同様に何か深いいわくがある塔なのではないかと考えている。何しろM村は過去に悲惨な事件や事故、天災に何度か見舞われている。
中でも戦国時代に時のM村の武将たちは遠征した場所で篭城した村人を皆殺しにした事実がある。このような歴史上の悲惨な事実を見つめていると庚申塔に刻まれている三匹の猿(見ザル、言わザル、聞かザル)が村の厳しい戒律を物語っているように思う。
確かに筆者もM村に出かけては奇跡の森にまつわる話や過去に起こった歴史上のことを村民から聞き出そうとしているが、なかなか村人の口は堅く詳しいことは話してくれない。
M村の入り口にある庚申塔・・・これこそが「村民よ、よそ者に堅く口を閉ざせ!」という村の厳しい戒律たる存在なのではないかと考えている。写真はその庚申塔である。誠にもってM村の庚申塔はただの記念塔とは思われない。

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2009年1月 1日 (木)

寒念仏鉦叩像に学ぶ

Tatakizou01 謹賀新年。今年も不思議な世界の謎解きに挑戦していきますので、来訪された皆様、宜しくお願いします。
さて、昨年は米国発のサブプライム問題が日本というか世界各地に広がって大変な年になりました。今年はそう簡単には景気は回復しそうにありませんが、先人の知恵というものをこのような苦境のときこそ我々は学ぶ必要があるように思います。
昨年の暮れ、筆者がM村を訪問したときに【寒念仏鉦叩像(かんねんぶつかねたたきぞう)】というものが村の入り口付近で目に留まった。
「寒念仏(かんねんぶつ)」というのは、ある文献によると【小寒から節分までの30日間、鉦を叩き念仏を唱えて回るもので、一年で一番寒い時期に行われる苦行の一種です】このような説明がなされている。
インターネットで調べてみると、この寒念仏像というものは大体が鬼の格好をしているものが多いようだ。しかしながらM村の寒念仏像は鬼ではなく純粋な僧の姿である。建立した時期が横の石塔に寛政10年10月と刻まれていた。歴史を紐解いていくと、この時期に大飢饉などがあって寛政の改革というのが断行されている。
その寛政の改革の時期にM村からそう遠くはない浅間山の大噴火があって、その影響による大飢饉が関東、東北地方で記録されているのである。その時期にM村の僧侶が寒念仏の荒修行をやって、M村はこの苦境を乗り切ったのである。そして、その記念に村の入り口に寒念仏像を建立したものであった。
今年もまだ平成大不況の嵐は収まろうとはしないが先人の知恵に習って、今の政府は大改革を断行し地方自治体や個人は自分たちでできる不況対策を講じるべきではないだろうか。写真はM村にある寒念仏鉦叩像である。まことにもって先人の知恵はすばらしいと思う。

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