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2008年4月

2008年4月29日 (火)

秩父事件に思う

Kyumin01 明治に入ってから奇跡の森の近くの村で農民の武装蜂起が記録されている。いわゆる秩父事件と呼ばれるものである。
この事件は1884(明治17)年10月31日から11月9日にかけて、埼玉・群馬・長野などの民衆数千人が負債の延納、雑税の減少などを求めて困民党というものを結成して武装蜂起したものであったが、すぐに明治政府によって鎮圧されている。
このとき、M村の住民は歴史書などを調べてみたが、この武装蜂起には一切加担しなかったようである。やはりM村は信州人気質というものが昔からあったようで、隣村のことを関東方と呼んでいるのでよく分かる。すなわち、この秩父事件というものは関東、要するに戦国時代は風林火山でおなじみの上杉謙信が関東管領として治めていた地域の村人が武装蜂起したのである。
この武装蜂起は明治政府の圧倒的な軍事力によってすぐに鎮圧されてしまったのだが、この奇跡の森の近くを当時の困民党の兵士たちが泣きながら敗走していったのだと思うと、何となく歴史というものの悲しい情景を肌で感じることができる。
写真はM村の現在の村道であるが、その昔、官軍に追われた困民党の兵士たちがこの道を敗走し野辺山付近で力つきて壊滅したと歴史は刻んでいる。

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2008年4月25日 (金)

あばらやの石

Stone01 ちょっと“大理石”について話してみよう。ひょんなことから奇跡の森で大理石の鉱山跡を発見してから、ちょっと鉱石について感心がでて図書館でいろんな専門書を調べてみた。大理石というのは石灰石が長年の間にたい積してできたものだそうなのだが、名前の由来は中国の大理という地名である。この場所では良質な石が産出されることから、石の名前に採用されたようである。この大理石は古くは世界各国で「絵入りの石」として珍重され、イタリアのフィレンチェ近くから出る廃墟図入りの大理石「あばらやの石」と呼ばれるものが有名である。確かに大理石には不思議な紋様が浮き出ているので「絵入りの石」という表現にも納得できるものがある。
この他にイギリスのカタムという場所から産出される大理石は風景画が浮き出ているともいわれ、いわば自然が作った芸術品として珍重されてきたのである。
一方、奇跡の森があるM村では、この場所に埋蔵されている大量の大理石については大変良質といわれ太鼓判が押されているので、平成元年から村の特産品として村外に販売しようという試みがあったようである。しかしながら、この試みは奇跡の森で起こる不思議な出来事の数々が何かの祟りではないかとの噂話があるせいだと思うが、現在はこの場所から大理石が切り出されている姿はどこにも見られない。確かに村の関係者に奇跡の森について話を聞こうとすると話がはぐらかされることが多い。
「あばらやの石」、奇跡の森に眠る大理石鉱山との不思議な共通点は、“廃墟”という姿である。
写真は奇跡の森の石材加工場跡に放置されている大理石のすがたである。これだけの良質な大理石が眠る鉱山に手をつけられなくなったM村の事情を察することができる。

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2008年4月20日 (日)

ミステリーストーン

Mistery013 先月末、奇跡の森から帰ってきてから暫くの間、体調がとてもすぐれなかった。後頭部に何か違和感があって朝、ベットから起き上がると、とてもつらかった。最初は単なる風邪だろうと考えていたが風邪薬を飲んでもいっこうに回復しなかった。
今日このごろは、後頭部に感じていた違和感は不思議なほどなくなっている、どうしてだろう。先に「憑依」という記事でも書いたのだが、うつになったような同じような症状である。やはり、奇跡の森というところは昔から地元の人が気味が悪いといっている場所なのだから、何かあるのではないかと思う。
筆者は、奇跡の森には広大な大理石が埋もれているのだから、何か石に関する因縁のようなものがあるのではないかと思っているところである。奇跡の森を調査する際、当初は富士山麓の樹海のように地磁気が狂うような場所ではないかと考えて方位磁石を使って調べてみたが、特に異常は見られなかった。
日本では石にかんする伝説、奇談というものは余り目にしたことがないが、海外では結構「ミステリーストーン」として怪談や奇談のなかにあるようである。
石にかんする専門書を近くの図書館で調べてみたものの、最近の日本国内においては鉱物にかんする研究や調査は少なくなっているようで、「ミステリーストーン」と呼ばれるものは図書館でも余り目にすることができなかった。
しかし、一部の専門書には石自体から放射線を出すものが自然界に存在すると説明が添えられているので、このような説明が正しければ奇跡の森に存在する大理石には何らかの不思議なパワーがあるのではないかと考えられる。
写真は先月撮影してきた大理石鉱山の前に放置された機械の残骸である。切り出した大理石を小さく砕いて何かを採取していたのだろうと考えられる。

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2008年4月18日 (金)

篤姫の時代の大震災

Sensita01 NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ていて、長野県の千曲川上流にあるM村林道の奇跡の森(筆者が名づけたもの)に建立されている百番供養塔が嘉永元年(西暦1848年)に建立されたものだと閃いて、先般、ここのブログで「篤姫からの贈り物」という記事を書いて紹介した。
時代考証がしっかりしたドラマなどは、その時代の流れなどを筆者のような歴史に疎いものにもちょっとしたヒントを与えてくれて大変ありがたい。その「篤姫」の時代であるが、時代は幕末動乱の臭いが色濃く現れている。それは天保(西暦1830年)から大政奉還(西暦1867年)の僅か37年の間に和暦が8回も変わっているので、その時代がいかに目まぐるしく変動していたかがよく分かる。
現在の和暦はその時代の天皇即位にちなんで命名されているが、篤姫の時代などは社会的に不穏な動きがあったり重大な災害などがあると、和暦を変えて厄払いのひとつとしたようである。
さて、奇跡の森に話を戻してみると嘉永元年に百番供養塔が建立されているのが分ったが、その建立した理由がよく分かっていなかった。百番供養塔というのは江戸時代後期に全国に広まったとされ、お年寄りや病人が地元で巡礼ができるようにと建立されたものである。
しかしながら、奇跡の森の百番供養塔は標高1200mの山奥深い林道の中に建立されているのである。ひと目にもつきにくいし、老人や病人が巡礼するにはいささか不自然としか思われない。そんな疑問も重なって調べを進めていたら、その「篤姫」の時代、嘉永元年の前に何かが起こったのではないかと考えていたら、案の定、嘉永元年の前の年、すなわち弘化4年に「弘化の大地震」というものが起こっていたということが分った。
この大地震を調べてみると、1847年3月24日に信濃、越後方面でM7.4の大地震があって1万6千人の人が犠牲になったと記録が残っている。そして、この大地震によって信濃、越後界隈では各地で土石流による被害も報告されている。
この大地震の記録によってこれまで抱えていたもうひとつの謎が解けた。それは写真にあるように奇跡の森に続く小さな橋の存在だ。この橋については以前にもここのブログでも紹介したが、この橋の名前は泉下橋(せんしたばし)と刻んであって、現在のものは昭和35年に竣工されている。
筆者はこの橋の名前から周囲に泉のようなものがあるだろうと思って、橋の上流を何度か調べてみたが、そのような泉は確認できなかった。要するに「弘化の大地震」によってこの泉下橋の上流にあったと思われる泉が決壊したのではないかと考えられるのである。
そして、その土石流によって下流の村が被害にあって犠牲者がでた。これは何かの祟りだろうと考えた村人が大地震の翌年、嘉永元年に奇跡の森に百番供養塔を建立したのではないかと考えられる。これは村人の話から奇跡の森の周辺で昔から不吉なことが起こっているという証言があるからである。
祟りというものは日本全国に怪談などの伝説の中に記録されているが、長野県M村の祟り伝説に奇跡の森の奇妙な出来事が記録されていないのは、今でも不思議でならない。

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2008年4月13日 (日)

石こづみという風習

Kofun06 積石塚古墳の由来について民俗学者、折口信夫はこう語っている。
<石こづみの風習、これは、石の中にたま(魂)が這いいる、と考えられることから生じた、ひとつの風習と考えられるが、石の中に人をつみ込む風習が、古く日本にあったようだ。~彼ら(山伏)の仲間では死んだものがあると、谷に落として、石をふりかける。悪いことをしたものは、石こづみにする。こづむとは、積み上げることである。これが後に石こづめと言われるようになって、奈良の猿澤の池の石こづめ塚のような伝説もできたのであるが、元は、山伏の仲間の風習であった。~これが刑罰としてではなく、復活の儀式として行われた時代があったに相違ない。前に述べた、衣類や蒲団にくるまって、たましいが完全に、体にくっつく時期を待った、と同じ信仰のもので、石の中には、這いいることができないために、石を積んだのである。そうすると生まれ変わると信じたのである。:中公文庫 折口信夫全集第三巻から>
筆者は古墳の専門家ではないが、石を積んで死者を弔ったというのはこの折口信夫のいうように死者の復活を古代の人々は考えていたのである。
そうすると奇跡の森で出会った幽霊クリウは、復活した生命なのだろうか、とても不思議である。
写真は筆者が奇跡の森で撮影した<6号>と呼んでいる古墳らしいものの写真である。この界隈ではいくぶん大きく、高さは1mほど、幅は5mほどで上から見ると楕円状の形をしている。

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2008年4月10日 (木)

篤姫からの贈り物

Hyakuban013 今週6日(日)に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫」をみて閃光のようなものが体内をとおり抜けていくのを感じた。感じたというより、どう表現していいか分らないがインスピレーションのように閃いた。
そうである。筆者が5年ほど調べている奇跡の森に建立してある百番供養塔に刻んである文字のことである。とっさに建立された年代が嘉永元年のことだと閃いたのである。挿絵に示すとおり百番供養塔の向かって右手に刻まれている文字がこれまでひとつの謎だったのだが、篤姫に描かれている時代が「嘉永」という年号に気づいたのである。
しかしながら、その下に刻んである「申」という文字と「手」のような文字は誰かが「申し出た」と刻まれていると考えていたので、建立した年代だとは考えられなかったのである。
そのような中で嘉永元年の干支を調べた結果、その年の干支は「申(さる)」であった。従って奇跡の森に建立してある百番供養塔は「嘉永元年申年」に建立されたと読むことができる。
お~!筆者は古代文字の専門家ではないが、素人が古代文字の謎をひとつ紐解いたと考えるととても嬉しい。これはNHK大河ドラマ「篤姫」からのすばらしい贈り物だったと思われてならない。
そうすると「嘉永元年」は西暦1848年なので奇跡の森にある百番供養塔は今から160年前に建立されたということになる。恐らく奇跡の森で祟りのようなものが起こって、鎮魂のために最初に建てられた供養碑だったのではないかと筆者は考えている。

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2008年4月 9日 (水)

古墳の不思議

Kofun011 縄文時代あたりからの古墳を専門書などで調べてみると、これらの特徴のひとつがひと目でそれが古墳だと分るように大きく作られていることである。
古墳調査の専門家の方々のHPを見ても、そのようなことが述べられている。従って、筆者としても奇跡の森に存在する古墳らしいものを大きな声で古墳だと主張するには、その規模の違いからいささか自信も湧いてこないところである。
確かに奇跡の森の古墳らしいものは挿絵を見ても分るように、その大きさは縄文時代の積石塚古墳などと照らし合わせても規模が小さすぎるから地元でもこれまで古墳発見に至らなかったのではないかと思う。
3月30日の調査で筆者自身で百番供養塔の界隈に30基ほどの古墳らしいものを確認してきたが、いくら偶然といっても山中にこのようにこんもりと小石で積み上げたものが作られているのだから、何か理由があってのことだろうと思う。
奇跡の森がある場所は長野県の千曲川上流であるが、地名考証から考えれば群馬県から流れを受けているものと考えられるので、恐らく先祖たちは千曲川界隈に暮らしていた住民と争いを避けるためにひっそりと暮らしていたのではないかと思う。
従って、死者が出ても目立たないようにT山の山中に小さくお墓をつくったのではないかというのが、現在の筆者の考え方である。

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2008年4月 6日 (日)

古代のロマンとミステリー

Map003 さて、先月30日に今年初めて奇跡の森の調査を行ってきたが古墳群らしいものは挿絵にも示すとおり奇跡の森の周辺でA~E地区の5ケ所に分散して30基ほど確認できた。
これらの古墳群らしいものは近くに大理石の岩盤がむき出しとなって見られるので、その昔、死者を弔うとき、近くにある大理石を小さく砕いて積み上げて墳墓としたのではないかと考えられる。
挿絵にも示しているとおり、デッド・ポイントとは筆者が幽霊クリウやひとだまと遭遇した地点である。まさにこの場所には広大な古墳群が眠っているのは間違いないだろう。
それから、これだけの大理石の岩山があるのだから、どこかに大きな鍾乳洞のようなものがきっと眠っていると思う。鍾乳洞が発見されればM村の観光産業に大きく寄与するのは間違いない。まさに奇跡の森には古代のロマンとミステリーが眠っているのである。
今後、調査を進めていけば奇跡の森の周辺で古墳群らしいものは他にも出てくると考えている。

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2008年4月 4日 (金)

失われた文明から

Lostw 先日、今年になって初めて長野県にある奇跡の森(筆者がつけた森の名称)に足を運んできた。
今回は主に百番供養塔の周辺の古墳らしいものの位置と数の調査である。早朝、午前6時の気温は氷点下5度、とても肌寒かった。
雪は殆ど解けてはいたが、まだ、ところどころに残雪がみられた。今年は例年になく寒いようだ。早朝、少し雪が舞った。
今回は百番供養塔を中心に、その周辺の調査を行ったが古墳らしいものは30基ほど確認できた。この古墳らしいものの特長は、全てが一見してすぐにお墓だということが分らないという点である。
高さは高いもので1m、全体的には50cm程度のものが多い。それからすべてが標高1200mほどの山の中腹の斜面にあることである。
まだ全体的なものはよくつかめていないが、奇跡の森がある付近の地名に“海”に関連するものが実に多いことに気づいている。
それから、なんとなく気になっているのが“失われた文明:A・ゴルボスキー 講談社”という著書である。この本には地球の天変地異と人類の滅亡のようなものが1万2千年周期で起こっているのではないかと述べられている。
1万2千年前というと日本は縄文時代の初期のころである。失われた文明に記述されている内容が正しければ、奇跡の森がある場所の近くには、標高が1200mにも関わらず、その昔、近くに海のようなものがあったのではないかと考えることもできる。
それにもまして恐ろしいのは、天変地異の1万2千年周期説が正しければ、そろそろ地球上に大きな天変地異が起こるかもしれないということである。
確かに現在は地球温暖化が大きな問題となっているから、A・ゴルボスキーの警告は間違っていないのかもしれない。

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